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欺瞞の世と議論

欺瞞の世と議論
皆さん現在のこの混沌とした状態を、欺瞞の世と議論として説明していこうと思います。

私も沙汰は意外と慣れていたと言うか悪い意味で鈍感になっていたかもと改めて考えされるこの大統領選以降の混沌でした。
理屈としては理解し経験としても納得している。しかしそのダメージの大きさは確かに大きかった気がします。闘争は必ずダメージを負います。私が巨悪や弁護士と戦った時もやはりダメージは大きかった。でもそれも覚悟した上で戦わないといけないというこの日本や世界の状況が気が付いた国民には受け入れがたいのかもしれません。それは政治家を見ても然り、しかし国民はネットと言う便利な図書館で様々な情報を知り自ら闘いだしたと思いました。
私は皆さんの為に何があれば便利だろう!?と考えた時から自然とディベートをしてました。勿論リアルではその場が無いのでネットで幾度と基本口頭でしました。
それからそれを明文化、体系化する為に調べたら議論も学問に成っていました。

簡単に申しましても、
善と悪と別けて、
・建設的な議論が善論法
・それ以外は基本悪論法
と成ります。
その悪論法 の中に 私の呟きにもある 詭弁きべん(故意のウソ) 強弁きょうべん(おしつけ) 誤謬ごびゅう(勘違い) があります。
上記三つを知るだけでも、「それ詭弁ですよ!」などというだけで実は嘘つき怒らせたり困らせる事は出来ます。それをせずとも自身は騙されずに済みます。
ワードから検索して、理解を深めたら攻守共にもっと強くなります。
そして議論の果てに気が付いたのは、故意のウソもおしつけ もダメ そして勘違いを減らす為に調べる。その繰り返しをして、「議論は相手を倒すものでも自分を守るものでも無く、自分を知り相手を知るものだ。」と分かりました。
そして人は強くない弱い生き物だと、一喜一憂する感情が邪魔、
それに感情そのものが自分自身だと勘違いしている自分、個人の自由と言う権利主張を連呼する勘違いさせる世の中 一方世にいくら幻があれど論理は一切変わらない。
つまり自分も含め人々はただ無知であり、今まである知識や文化や言語の中に生きているだけで実は何も生み出してなんか居ないとも、そこまで理解した時自身の小ささを受け入れる事が出来ました。そして他人も小さい。なので悔い改めるなら私は他人を許します。
それに、勝てると分かる相手、自分より弱い相手とは戦いわないとも決めてます。
ただただ絡まれるから相手はしますが、皆さんには良いデモンストレーションになるからそれもまた良し、それは相手が決めたものですしね。
とにかく人は弱い私も弱いそれを認めてこそ強さを得れると、
所詮どなたも宇宙のチリなのですから

結論何が言いたいかと言いますと、皆さんは、皆さんなりの議論が出来ます。あなたが感じた苦しみをそれを知らない知ろうともしない人々に与える事は出来ます。それが討論の際に起こる情動です。それを相手に与え、そして相手がその苦しみを感じ過ちを認めたら許したらよいのです。その痛みを相手も知ったなら、つまりこれも優しさですよね。
釈迦も傍観から罵詈雑言、罵声を浴びせられても相手が疲れるまで黙り、最後に「それは私の意見ではない つまり誰の意見かな!?」と言って立ち去ったと言います。これを言われた時、自身を知った時の苦しみを相手に教えてあげる事が相手のためにも成るのですよね。
と私が議論で何をしているか!?の説明でも有ります。知ろうともしない愚者には苦しみを与えがけに落とし這い上がる事を求めます。
知ろうとするなら、そのキーワードを与えその人がその人なりに成長する事を望みます。
つまり、世の人々は、成長せず見た目は大人に成れど、子供が喧嘩している 赤ん坊が駄々こねているのと同じなのです。
そう見たらよいのですよね。

米中対立の最中日本の国益を生むスタンスは?


デカルト曰「不決断こそ最大の害悪」 https://tinyurl.com/y437nsye
マキャベリ「中立を守ってはならない」https://tinyurl.com/y3te4jjo
日本が世界一の覇権国で、武装中立を守れる状態なら、勿論江戸時代の鎖国のように中立で益を成す事も出来るでしょう。しかし現在それを実行するのは明らかに無理、太平洋で米中大国同士がにらみ合う中、朝鮮半島のような事大主義に落いっては愚策ですね。
それに米国との同盟関係と言う前提を理解できてない振りをする親中派論者か夢想家のコメンテーターが多すぎるのが問題、世界覇権を狙う中国からしたら、覇権国の同盟国を狙い同盟剥がしをされている事にまず気がつかないと駄目ですしね。
「敵を知り己を知れば百選危うからず」孫子
勿論争いですので、絶対はないので勝利の可能性が高い方に付くという判断がベスト軍事力から行ったら勿論米国、中国も頑張っているようですが、正直いくつかの問題があるように見られる。まず、質より量で攻めてくる。これが中国の得意分野ですが、技術的な問題と運用と維持に関して非常に疑問を感じる。まずファーストコンタクトまでは武力衝突は可能でしょう。しかしその維持が出来るか?兵士の指揮が保てるか?です。壊滅判定が通常7割と聞きますがはたして中国人の精神力が如何に保たれるか?です。おそらくファーストコンタクトで米国より相当なダメージを受けたとこからの巻き返しをしないといけない。中国は歴史的に見て大勝利を収めたのが、朝鮮戦争ぐらいでしょう。それ以外あの国は大国同士や強敵に武力で勝ったことが無い。越の国ベトナムにすら陸戦で負ける。そもそも戦争に弱い事を知っている国だからこそ、政治戦、外交戦、など情報戦を選び長けているという話もあります。しかし、その情報戦も米国内での撹乱が表層化し行き詰まりを見せてきている。外交交渉でも決裂の様子、では今後武力衝突や米国からの一方的外交制裁の二方面から追い込まれる状況、中国は謝罪するか?やるか?の二択に迫られている。
中国が戦略的にここまで想定内ならもうとっくに自ら攻撃を仕掛けただろう。情報戦も得意なのだから、武力で押し、大義名分もでっち上げられたはず。しかしそれをしていない。出来ない今中国の弱点が自明の理で表層化しているのです。

そして自ら武力衝突を仕掛けられない。謝罪も出来ない中国は、今もなお重大な戦略的ミスを起こしている。それは、順次戦略と累積戦略 で累積的判断を取っていると言う事です。「今まで米国は見過ごしてたし、今まで怒ってないんだから大丈夫だろ!?」的な見方なのか?「これが俺らの勝利の方程式で今まで勝利を収めてきたから行ける!」と言う思い込みなのか明らかに判断を誤っている。
順次戦略は、一般的に言えば臨機応変や適材適所てきで、「相手がああきたから、こう返そう!」と言う感じです。ww2日米開戦での、ミッドウェイ開戦まで、破竹の勢いで前線全勝の日本海軍「イケイケドンドン!やっちまえ!」の日本軍がなぜ負けたかと言うと、当時の米国は同数の航空戦力でゼロ戦に太刀打ちできない事を認め「最低2機で相手しろ!」とプライドを捨て制空権を奪取し、日本がマレー沖海戦で英戦艦プリンス・オブ・ウェールズを撃沈したように、日本の艦隊を撃沈していった。つまり当時の対空戦において、防空能力がそこまで確実性を持っていなかった点が争点になったのでしょう。
後は米国「まともにぶつからず、どこか攻撃した後、帰還した所を狙うぞ!」と相手の虚を突く戦法を取れたのも良かったのでしょう。



奴隷貿易 保存用

奴隷貿易
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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Official medallion of the British Anti-Slavery Society (1795).jpg
奴隷貿易(どれいぼうえき、英: slave trade)とは、国家間で奴隷を取引の目的物とする貿易である。


目次
1 古代から中世の奴隷貿易
2 大西洋奴隷貿易
2.1 概要
2.2 歴史
2.3 規模
2.4 奴隷貿易廃止から植民地化へ
2.5 奴隷貿易への批判
3 日本人奴隷の貿易
4 聖書における関連部分
5 出典・注釈
6 関連項目
7 外部リンク
古代から中世の奴隷貿易
詳細は「古代ギリシアの奴隷(英語版)」を参照
古代ギリシアにおいては、戦争捕虜が奴隷貿易で取り引きをされた。紀元前5世紀から紀元前2世紀のマンティネイアの戦いまでは、ギリシア人以外の非自由民を売るのが通例であり、捕虜となった奴隷は交易港に運ばれて戦利品とともに売られた。スパルタのアゲシラオス2世[1]がその場での競売を考え出し、以後は軍隊に代わって従軍する奴隷商人が担った[2]。古代ギリシアの都市国家では、奴隷は「物言う道具」とされ、人格を認められず酷使された。特にスパルタにおいては市民の数を奴隷(ヘイロタイ)が上回っており、過酷な兵役は彼らを押さえ込むという役割も持っていた。古代ローマもこれに倣い、奴隷を生産活動に従事させた。ローマが積極的な対外征服に繰り出したのは奴隷を確保するためでもあった。ごくわずかであるが剣闘士となりコロッセウムで戦いを演じさせられた者もいる。両文明の衰退後は、市民自らが生産活動を行うようになり、国家規模での奴隷事業はなくなったが、奴隷そのものが消えたわけではなかった。

奴隷 · 強制労働
IJzeren voetring voor gevangenen transparent background.png
種類
役身折酬 · 人身売買
ピオネージ(英語版) · 懲役
性的奴隷 · 賃金奴隷(英語版)
歴史
歴史(英語版) · 古代(英語版)
アステカ(英語版) · ギリシア
ローマ · 中世欧州(英語版)
スレール · ホロープ(英語版) · 農奴
奴隷船 · ガレー船奴隷(英語版)
宗教
聖書(英語版) · ユダヤ教(英語版)
キリスト教(英語版) · イスラム教
反対運動 · 解放
年表(英語版) · 奴隷廃止論
補償解放(英語版) · 奴隷の反乱(英語版)
奴隷体験記
地下鉄道
表話編歴
古代社会における奴隷と近代以降の(特に黒人)奴隷では明確に異なる点も多い。例えば、スパルタの奴隷は移動の自由こそなかったが、一定の租税さえ納めれば経済的に独立した生活を送ることができた。アテナイの奴隷は市内を移動する自由が認められており、肉体労働だけではなく、家庭教師や貴族の秘書といった知的労働に従事することもあった。更に古代ローマでは、カラカラ帝によるアントニヌス勅令施行以前まではローマ市民権を得ることによって自由人になる(解放奴隷)道が開かれていた。鉱山労働者や家庭教師など奴隷の仕事は様々であり、言ってみれば「職業と就職先を自分で決定する権利が無い労働者」と言ってよい存在だった。娼婦や剣闘士のような、特定の主人に仕えない自由契約の奴隷は、個人の努力次第で貴族並みの収入と名声を得ることもあった。

中世においてはヴァイキングによりスラヴ人(サカーリバ)が、またアッバース朝以降のムスリムによりトルコ人が多く奴隷とされた。それら奴隷とされたトルコ人は生産活動に従事するのではなく、主に奴隷兵士として徴用された者も多かった。また、マムルーク朝、奴隷王朝の名はマムルーク(奴隷兵士)を出自とする軍人と、その子孫に由来する。

中世における世界の奴隷売買の中心地と言えたイスラム世界においては、その奴隷のほとんどがゲルマン人、スラヴ人、中央アジア人およびバルカン人で、黒人は少数であった。奴隷を意味する英語の"Slave"はスラヴ人に由来する。西欧を例にとれば、ヴェルダンではアラブ諸国向けの宦官の製造が町の最も活発な産業部門という時代もあった[3]。中世のイタリア商人は黒海において奴隷貿易を行ない、スラヴ人、トルコ人、ギリシア人、アルメニア人、タタール人の奴隷が、アレクサンドリア、ヴェネツィア、ジェノヴァなどへ運ばれた。ジェノヴァの商人は、カッファの後背地で奴隷狩を行なった。1317年に教皇ヨハネス22世は、ジェノヴァに対して、異教徒に奴隷を供給して力を強めることがないようにと警告をした[4]

「奴隷」の代名詞が黒人(いわゆるブラックアフリカ諸民)になったのは大西洋奴隷貿易以降の時代のことであって、それまでの「奴隷」の代名詞は主にゲルマン人とスラヴ人であった。

大西洋奴隷貿易
詳細は「三角貿易」および「大西洋奴隷貿易」を参照
概要

アフリカに於ける奴隷狩りの様子。

奴隷船の内部構造。
大航海時代に、15世紀から19世紀の前半まで、とりわけ16世紀から18世紀の時期に、主にヨーロッパ(スペイン、ポルトガル、オランダ、イギリス、フランス、デンマーク、 スウェーデン、アメリカ州を含むヨーロッパ系植民者が関わり)とアフリカとアメリカ大陸を結んで、その後約3世紀にわたってアフリカ原住民を対象として展開され、西インドのプランテーション経営に必要な労働力となった(→三角貿易)。供給源となったアフリカが西欧諸国を中心とした世界経済システムの外にあった期間は、経済圏外からの効果的な労働力供給手段として機能したが、地域の人的資源が急激に枯渇してしまい、それに伴う奴隷の卸売り価格の上昇、そして需要元である南北アメリカの農業の生産量増大による産物の価格低下により、奴隷貿易は次第に有益とは見なされなくなり縮小に向かった。その後人道的あるいは産業的見地からの反対を受け、1807年にイギリスにて奴隷貿易は禁止された。

2004年3月、奴隷貿易に関与していた英国ロイズ保険組合、米国たばこメーカー大手R.J.レイノルズ・タバコ・カンパニーなどに対して奴隷の子孫のアメリカ人が訴訟を起こした。

アフリカにとって奴隷貿易の開始は、現代までに続く外部勢力による大規模な搾取・略奪そのものと言われるが、現実には奴隷狩りを行い、ヨーロッパ人に売却したのは現地アフリカの勢力である。奴隷貿易によりアフリカは社会構造そのものが破壊されてしまった。これに貢献したコンゴ王国、ンドンゴ王国、モノモタパ王国などは衰退の運命を辿った。[5]

歴史
ヨーロッパ人によるアフリカ人奴隷貿易(英語版)は、1441年にポルトガル人アントン・ゴンサウヴェス(英語版)が、西サハラ海岸で拉致したアフリカ人男女をポルトガルのエンリケ航海王子に献上したことに始まる。1441-48年までに927人の奴隷がポルトガル本国に拉致されたと記録されているが、これらの人々は全てベルベル人で、黒人ではない。また、拉致された人々も、王室で働く下僕ということで、扱いはさほど悪くなかったもようである。

1452年、ローマ教皇ニコラウス5世はポルトガル人に異教徒を永遠の奴隷にする許可を与えて、非キリスト教圏の侵略を正当化した。

大航海時代のアフリカの黒人諸王国は相互に部族闘争を繰り返しており、奴隷狩りで得た他部族の黒人を売却する形でポルトガルとの通商に対応した。ポルトガル人はこの購入奴隷を西インド諸島に運び、カリブ海全域で展開しつつあった砂糖生産のためのプランテーションに必要な労働力として売却した。奴隷を集めてヨーロッパの業者に売ったのは、現地の権力者(つまりは黒人)やアラブ人商人である。

初期の奴隷貿易は、ヨーロッパ人商人、冒険家、航海者などが、自己の利益のために自己負担で行った私的なもので、小規模なものであった。その後、中南米地域の植民地化に伴うインディオ人口の激減、植民地のヨーロッパ系人口がなかなか増えないこと(貧しい白人入植者が、年季奉公の形で期限付きであっても奴隷同然の扱いを受けるのは一般的であり、概して海外植民地は不人気だった)、熱帯地域において伝染病によるヨーロッパ系移民の死者が多発していたことなどで、労働者が不足するようになっていた。また、ヨーロッパ産の家畜は植民地で数が増えにくく、農耕の補助に家畜が使えなかった。こうした理由により、当時の理論では熱帯性の気候に慣れて伝染病にも強いと考えられたアフリカ人が労働力として注目されるようになり、奴隷取引は次第に拡大していく事になった。しかし、「奴隷狩り」から「奴隷貿易」へのシフトは、中南米植民地の開発よりもずっと早い1450年代に起こっている。1450年代に入ると、カシェウ(ポルトガル領ギニア、現ギニアビサウ)、ゴレ島(セネガル)、クンタ・キンテ島(ガンビア)、ウィダー(現在のベニンのギニア湾に面する奴隷海岸)、サントメ(コンゴ)などの地元勢力が、戦争捕虜や現地の制度下にある奴隷をポルトガル商人に売却するようになった。

1480年代にはエルミナ城(黄金海岸)が建設される。特に1480年代には、ポルトガルとスペインで独占的な奴隷貿易会社ギニア会社(英語版)が設立されるにいたった(勅許会社)。この時代、カリブ海地域のスペイン領向けとして、ポルトガルの独占下で奴隷を売ってもらえないイギリスの「冒険商人」による「奴隷狩り」が散発的に行われ、中でもジョン・ホーキンスとフランシス・ドレークの航海は有名である。しかし、誤解も多いが、映画に見られるような白人による「奴隷狩り」はごく稀なケースである。その後、奴隷貿易の主導権がオランダ、フランス、イギリスなどに移り変わっても、特許会社が現地に要塞/商館/収容所兼用の拠点を置き、現地勢力が集めた奴隷を買い取って収容し、それをさらに船に売り渡すという形式のみとなる。そして時代が下るにつれて、ウィダー王国(英語版)、ダホメ王国[6]、セネガンビアなど西アフリカ地域のアフリカ人王国は、奴隷貿易で潤うようになる。売られた人々は元々、奴隷、戦争捕虜、属国からの貢物となった人々、債務奴隷、犯罪者などだったが、コンゴなどでは、ヨーロッパ人に売却する奴隷狩りを目的とする遠征も頻繁に行われた[7]。16世紀には、ナイジェリア(ラゴス)などでも奴隷をポルトガル商人に売却するようになった。


奴隷販売の広告(1829年)。
18世紀になると、イギリスのリヴァプールやフランスのボルドーから積み出された銃器その他をアフリカにもたらし、原住民と交換。さらにこうして得た黒人を西インド諸島に売却し、砂糖などをヨーロッパに持ち帰る三角貿易が発展した。また、アフリカでは綿布の需要が多いことにイギリスの資本家が目をつけ、マンチェスターで綿工業を起こした。イギリス産業革命の基盤である綿工業は、奴隷貿易が呼び水となって開始されたことが注目に価する。バークレー銀行の設立資金やジェームズ・ワットの蒸気機関の発明に融資された資金は奴隷貿易によって蓄積された資本であると伝えられている。[5]

規模
約3世紀に及ぶ奴隷貿易で大西洋を渡ったアフリカ原住民は1,500万人以上と一般には言われているが、学界では900万人-1100万人という、1969年のフィリップ・カーティンの説を基にした数字が有力である。多数の奴隷船の一次記録の調査で、輸送中の死亡率がそれまで考えられていたほど高くなかった(平均13%、なお奴隷船は船員にとっても過酷な職場であり、船員の死亡率は20-25%に達している)、輸出先での人口増加率が意外に高いと推定される、というのが説の根拠である。ただし、カーティンの説(彼自身は900万人強を提唱していた)には、一次記録が存在しない16世紀~17世紀初頭に関しての推定数が少なすぎるという批判もあるが、そうした批判を踏まえても1200万人を超えることはないと考えられている[7]。 なお、奴隷狩りに伴う戦闘や移動させられる途中の落伍などで生じたであろう、奴隷がヨーロッパの特許会社の収容所に集められるまでの犠牲者の数については、考察しようとしいう試みはあるものの、正確な記録が全く無いため全くわからない。

奴隷貿易廃止から植民地化へ
奴隷貿易に対しては、その開始と同時に宗教的および人道主義の立場から批判が起こっていた(「奴隷制度廃止運動」を参照)。特に18世紀後半以降、宗教的/人道主義的意見と、奴隷価格の高騰という植民地側の事情がかみ合った。19世紀初頭には、まず(奴隷制度では無く)奴隷貿易禁止の機運が高まり、イギリスは1807年、世界に先駆けてアフリカ人奴隷貿易(英語版)禁止を打ち出し(en:Slave Trade Act 1807)、ナポレオンとの戦いで海軍力が慢性的に不足している中でも、アフリカ沿岸に多数の艦艇を配置して奴隷貿易を取り締まり、ラゴスなどポルトガル人の奴隷貿易港湾を制圧した。奴隷貿易廃止によってボーア人の深刻な労働力不足が引き起こされた不満から[8]、1835年にグレート・トレックが起こっている。なお、奴隷貿易廃止と植民地化に伴う現地の労働力の確保とが結びつけて考えられる事があるが、これは誤りである。奴隷貿易の中心である西アフリカ、東アフリカの沿岸地帯の植民地化(アフリカ分割)が始まったのは、少なくともイギリスに関しては50年以上経った19世紀半ば以降のことであり、それは1880年に南アフリカで起こったボーア戦争へと繋がった。

その後、カリブ海地域で成立した近代奴隷制は、19世紀前半期に次々に廃止されていった。イギリス領諸島では1833年、スウェーデン属領では1846年、フランス領では1848年、オランダ領では1863年に、奴隷制が廃止された。

こうした動きの中、アメリカ合衆国では1808年に奴隷の輸入が禁止されたが、綿花プランテーションで奴隷を使役したい南部の農園主による密輸がその後も続いた。最後の奴隷船は、アフリカのベナンからモービル (アラバマ州)に110人を運び、証拠隠滅のため燃やされたクロチルダ号であった[9]。その直後に勃発した南北戦争で、奴隷制維持を掲げる南部諸州が結成したアメリカ連合国(南軍)が敗北。1865年に奴隷制が全廃された。

奴隷貿易への批判
21世紀においても、奴隷貿易への批判は後をたたない。2020年6月、アメリカ合衆国で発生した反人種差別デモは世界各地へ波及。イングランドのブリストル市内では、奴隷商人として知られていたエドワード・コルストンの銅像がデモ参加者の襲撃を受け、地面に引き倒された後にエイボン川へ投棄される出来事があった[10]。

日本人奴隷の貿易
「ポルトガルの奴隷貿易#アジア人の奴隷」も参照
16世紀から17世紀にかけての日本は、大航海時代を迎えて列強となったポルトガル、スペイン、オランダ、イギリスなどのヨーロッパ諸国から、東南アジアにおける重要な交易相手としてだけでなく植民地維持のための戦略拠点としても重視された。この時代は日本は室町から安土桃山時代の乱世(戦国時代)にあたり、漂着した外国船の保護を契機として、海に面した各地の諸大名が渡来する外国船から火薬などを調達し、大量の銀が海外に流出していた(南蛮貿易)。日本へは中国産硝石、生糸、絹織物、奴隷、ミイラなどが入り、日本からの輸出品には硫黄、銀、海産物、刀、漆器、そして日本人奴隷が含まれていた。

古来から日本の戦場では戦利品の一部として男女を拉致していく「人取り」(乱妨取り)がしばしば行われていた。この時代に入ると、侵攻地域に居住する非戦闘員に対する拉致や、非戦闘員の拉致自体を目的とした侵攻も恒常的に行われるようになっていたと考えられている。この時代に大内氏や尼子氏と代る代る戦争をした毛利氏は、領内深くに尼子氏が侵入してきた際、居城に非戦闘員である農民や商人らを収容して尼子氏による乱妨取りに備えた。同種の記録はこの時代の各地で見られる。乱妨取りされた人々の中にはヨーロッパ商人や中国人商人によって買い取られ、東南アジアなどの海外に連れ出されたものも少なからずいたと考えられている。[11]

九州の薩摩・大隅地方ではこの時代の少し前から、人々が盛んに海外に進出し私貿易を行うようになっていた。この地域では、国外で捕虜とした人々を日本に連れ帰って、来航した外国商人に奴隷として販売する事例も見られる。遣明船にも携わった西国の大名である山口の大内氏や、貿易都市である堺を掌握し、細川氏を継承する四国の三好氏らも、捕虜とした人々を外国商人に売却していたと考えられている。九州の南端に位置する薩摩地方の港や、西の京都と呼ばれた山口や、遣明船貿易で繁栄した堺の町では、これまでの明人に加えて、ポルトガル商人の活動も早くから確認できる。

1560年代以降、イエズス会の宣教師たちは、ポルトガル商人による奴隷貿易が日本におけるキリスト教宣教の妨げになり、宣教師への誤解を招くものと考えた。ポルトガル国王に日本での奴隷貿易禁止の法令の発布を度々求めており、1571年には当時の王セバスティアン1世から日本人貧民の海外売買禁止の勅令を発布させることに成功した。それでも、奴隷貿易は根絶に至らなかった。

1587年(天正15年)7月24日、豊臣秀吉は九州平定の途上で、当時のイエズス会の布教責任者であった宣教師ガスパール・コエリョを呼んで人身売買と宣教師の関わりについて詰問。即日、奴隷の売買を含む南蛮貿易の禁止とキリスト教の布教を禁じるバテレン追放令を発布した[12]。この時、各地に駐留していた外国人の日本人妻や混血児たちの中にも海外に追放され、奴隷となった者もいたとされる。

1596年(慶長元年)、長崎に着任したイエズス会司教ペドロ・マルティンス(Don Pedro Martins)はキリシタンの代表を集めて、奴隷貿易に関係するキリシタンがいれば例外なく破門すると通達している。[13]

やがて秀吉に代わって天下人となった徳川家康によって、南蛮貿易は朱印状による制限がかかった(朱印船貿易)。さらに鎖国に踏み切ったことで、外国人商人の活動を江戸幕府の監視下で厳密に制限することになった。日本人の海外渡航と外国人の入国も禁止され、日本人が奴隷として輸出されることはほぼ消滅したとされる。

しかし、明治維新後、海外に移住しようとした日本人が年季奉公人として奴隷同然に売り払われることはあった。後に内閣総理大臣になった高橋是清も、少年時代にアメリカのホームステイ先で騙されて年季奉公の契約書にサインしてしまい、売り飛ばされた経歴を持っている。

明治5年(1872年)には、横浜に寄港したペルー船籍船に乗せられていた清人苦力たちを、奴隷であるとして日本政府が解放して国際紛争となったマリア・ルス号事件が発生している。

聖書における関連部分
聖書に登場するセムは黄色人種の祖、ハムは黒色人種の祖、ヤペテは白色人種の祖とする、通俗的解釈が存在する。

箱舟から出たノアの子らはセム、ハム、ヤペテであった。ハムはカナンの父である。この三人はノアの子らで、全地の民は彼らから出て、広がったのである。さてノアは農夫となり、ぶどう畑をつくり始めたが、彼はぶどう酒を飲んで酔い、天幕の中で裸になっていた。カナンの父ハムは父の裸を見て、外にいるふたりの兄弟に告げた。セムとヤペテとは着物を取って、肩にかけ、うしろ向きに歩み寄って、父の裸をおおい、顔をそむけて父の裸を見なかった。やがてノアは酔いがさめて、末の子が彼にした事を知ったとき、彼は言った、 「カナンはのろわれよ。彼はしもべのしもべとなって、その兄弟たちに仕える」。また言った、「セムの神、主はほむべきかな、カナンはそのしもべとなれ。神はヤペテを大いならしめ、セムの天幕に彼を住まわせられるように。カナンはそのしもべとなれ」。(口語訳聖書『創世記』9章18節-25節)

奴隷と差別と宗教と異教徒と魔女狩りの歴史のヨーロッパ

今回の差別(過去の奴隷)問題で世界と日本の違いを考えさせられました。 諸外国の集団ヒステリーがあまりにも酷くみえ考えたら答えが見えました。
一神教の異教徒に対する排除と魔女狩り があの集団ヒステリーの原因だと思います。

ヨーロッパは皆さんも知ってのとおりですが、古代ギリシャから奴隷を使っていた。黒人奴隷問題の責任まで掘り下げると、ヨーロッパが終わります。 なぜならばキリスト教と王族が絡んでいるからです。

一方日本の差別問題をピックアップしますと
士農工商 と エタ ヒニン 河原者 の話は、確かに階層は分かれていたが、年貢を納めないでよかった。つまり非課税だったんですよね。つまりこの当時から優遇されていたのは確かです。
※士農工商に関しても厳密に別れていなかった説もあるそうです。今回はわかりやすく表記の為に使いました。
エタ と ヒニン に関しても 穢多頭 が 罪びと の 非人 の面倒を見る構図だったり 、セーフティーゾーンの役割で社会構造の一部にいた。これは西洋などと比べたらよっぽどましで、西洋は、悪魔や病人扱いして排除幽閉しました。
西洋は、歴史的に 異教徒迫害 と 魔女狩り 習慣があっただけですね。

それにしてもデモ活動に白人まで参加してるのは驚きでしたが、数年前に、ヨーロッパの若者がネット時代で自分の先祖が奴隷貿易や殺戮などアフリカや新大陸世界中で酷い事をしていたことを知り、ショックを受けていると聞いたことがありますが、まさにその影響が、奴隷商人の像を海に投げ捨て無かった事にしたいのだと見て取れました。

白人国家の良い部分は、負の歴史も歴史として残している所ですので私は残すべきだと思います。そもそも差別や人権問題に関しても、白人国家がしていたからその反省を踏まえするな!と言ってるまでは良いのですが、すぐ日本は遅れてるとか言い出すから問題なんですよね(笑)ここはお前らに言われえたくないで終わります。

一方アジアの大陸国チャイナは、焚書文化で王朝が代わり次第書物を燃やして歴史を無かった事にします。これだと学問に影響が出るのですよね。
ここ最近だと1966年の文化大革命でも賢人や書物が消失したそうです。
面白い話中国人は三国志を日本に来て始めて知るそうです。


まあ白人国家だけでなく、大陸国家はどこも似てる部分はあります。それに日本だけが単一文化で単一言語でまとも¥あっていたので違うのかもしれません。

、以下参考
穢多
https://tinyurl.com/y8vvwzua

魔女狩り
https://tinyurl.com/y7l9naqw


奴隷貿易
https://tinyurl.com/y7hw9oy6

ヨーロッパ人によるアフリカ人奴隷貿易(英語版)は、1441年にポルトガル人アントン・ゴンサウヴェス(英語版)が、西サハラ海岸で拉致したアフリカ人男女をポルトガルのエンリケ航海王子に献上したことに始まる。1441-48年までに927人の奴隷がポルトガル本国に拉致されたと記録されているが、これらの人々は全てベルベル人で、黒人ではない。また、拉致された人々も、王室で働く下僕ということで、扱いはさほど悪くなかったもようである。

1452年、ローマ教皇ニコラウス5世はポルトガル人に異教徒を永遠の奴隷にする許可を与えて、非キリスト教圏の侵略を正当化した。

大航海時代のアフリカの黒人諸王国は相互に部族闘争を繰り返しており、奴隷狩りで得た他部族の黒人を売却する形でポルトガルとの通商に対応した。ポルトガル人はこの購入奴隷を西インド諸島に運び、カリブ海全域で展開しつつあった砂糖生産のためのプランテーションに必要な労働力として売却した。奴隷を集めてヨーロッパの業者に売ったのは、現地の権力者(つまりは黒人)やアラブ人商人である。

奴隷貿易の被害は日本も例外でなく
1587年(天正15年)7月24日、豊臣秀吉は九州平定の途上で、当時のイエズス会の布教責任者であった宣教師ガスパール・コエリョを呼んで人身売買と宣教師の関わりについて詰問。即日、奴隷の売買を含む南蛮貿易の禁止とキリスト教の布教を禁じるバテレン追放令を発布した[12]。この時、各地に駐留していた外国人の日本人妻や混血児たちの中にも海外に追放され、奴隷となった者もいたとされる。

1596年(慶長元年)、長崎に着任したイエズス会司教ペドロ・マルティンス(Don Pedro Martins)はキリシタンの代表を集めて、奴隷貿易に関係するキリシタンがいれば例外なく破門すると通達している。[13]

やがて秀吉に代わって天下人となった徳川家康によって、南蛮貿易は朱印状による制限がかかった(朱印船貿易)。さらに鎖国に踏み切ったことで、外国人商人の活動を江戸幕府の監視下で厳密に制限することになった。日本人の海外渡航と外国人の入国も禁止され、日本人が奴隷として輸出されることはほぼ消滅したとされる。




以前もライブの際にコメントしましたが、アメポチ問題よりも今は国内の赤狩りの方が先ですのでお願いします。それに、国内どころか世界中赤狩りが必要な状態ではないでしょうか?って思えます。
過去、現在、未来 で歴史感情と政治を混同させないで戦略的に考えるのがベストだと思います。その昔では米中が仲良すぎて、オバマ政権の時には中国に売り飛ばされるのでは?と思っていましたからね。

原爆落とされたり等等、歴史はそうだったが現状は対中国で米国と同盟関係で押さえ込まないと日本も世界が大変なことになります。
尖閣問題もありますが、実際中国の実効支配は西側に伸び、一帯一路でヨーロッパまでその舞台になってます。
サイレントインベーション (静かなる侵略)などや超限戦(ちょうげんせん)などと言われる中国の軍事以外の侵略行為です。

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ロサンゼルス暴動
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ロサンゼルス暴動(ロサンゼルスぼうどう Los Angeles Riots)は、1992年4月末から5月初頭にかけて、アメリカ合衆国のロサンゼルスで起きた大規模な暴動[1]。アメリカにおいて異人種間の対立という形を取って現れる「人種暴動 race riot」の典型的なものとして知られる[2]。

単なる黒人と白人の対立にとどまらず、ロサンゼルスという多人種都市において様々な人種を巻き込んで広がったこと、また被害がきわめて大きかったことなどから、多くの映画や小説でも描かれ、現代アメリカ文化おいて頻繁に参照される重要事件のひとつとなっている[3][4]。「ロス暴動」「ロドニー・キング事件」などとも呼ばれる[5]。


目次
1 概要
2 暴動発生
2.1 ロドニー・キング事件
2.2 警察署襲撃
2.3 レジナルド・デニー集団暴行事件
2.4 韓国系商店街への襲撃
2.5 暴動終息へ
3 被害
4 背景
4.1 治安状況
4.2 マイアミ暴動
4.3 人口比率の変動・人種間対立
4.4 ラターシャ・ハーリンズ射殺事件
4.4.1 ブラック・コリア
5 暴動以後
6 ロサンゼルス暴動を題材にした作品
6.1 音楽
6.2 映画
6.3 漫画
6.4 その他
7 注釈
8 出典
9 関連項目
10 外部リンク
概要
直接のきっかけは1991年3月3日、ロドニー・キングという黒人男性がロサンゼルス市内を運転中にスピード違反で現行犯逮捕された事件である[2]。このとき車を降りたキングに対してロサンゼルス市警の警官4人が激しい暴行を加える様子が偶然撮影され、全米のTVネットワークで放送されたことから、市警の対応に強い批判が起きた[1]。

警官4人は過剰捜査の容疑で起訴されるが、約1年後に不起訴処分となったため、黒人社会を中心に批判が再燃し、一部が暴徒化して警察署などが襲撃された[4]。このさい警察署以外に韓国系アメリカ人が経営する商店などでも6日間にわたって略奪が発生し、逮捕者1万人・被害総額10億ドルという大規模な暴動へ拡大した[1]。現代アメリカ史上、1980年のマイアミ暴動や、2015年にボルティモアで起きた抗議活動と並んで、人種間の衝突から発展した特に大きな暴動事件として知られている[2]。

暴動発生
ロドニー・キング事件
1991年3月3日、当時25歳だった黒人男性ロドニー・キングがレイクビュー・テラス付近を運転中、ロサンゼルス市警(以下「LA市警」)の警官らがスピード違反容疑で停車を命じた[6]。別の罪で仮釈放処分中だったキングは再収監をおそれて逃走しようとしたが、警察車両による追跡のすえ強制停車させられ[7]、キングが車を降りると、警察官が装備のトンファーバトンやマグライトで殴打するなどの激しい暴行を加えた。ほぼ無抵抗のキングを警官が集団で暴行する様子を、たまたま近隣住民がビデオカメラで撮影しており、この映像が全米で報道されたため、警察側の対応に強い批判が起きた[8]。

この事件でビデオに映り身元が分かる白人警官3人(ステーシー・クーン巡査部長、ローレンス・パウエル巡査、ティモシー・ウィンド巡査)とヒスパニック系警官1人(セオドア・ブリセーノ巡査)の計4人が起訴された。裁判では、警察側の「キングは巨漢で、酔っていた上に激しく抵抗したため、素手では押さえつけられなかった」との主張が採用された[9]。実際はおとなしく両手をあげて地面に伏せたキングが無抵抗のまま殴打されており、医療記録によるとあごと足を骨折し、顔面に重傷を負っていたが、裁判で証拠として採用されなかった[10]。

事件発生から1年が経過した1992年4月29日、ヴェンチュラ郡上級裁判所において陪審団は無罪評決を下した[11]。裁判所のあったシミバレーは白人住民が多く、陪審員の過半数も白人だったことが無罪評決となった原因の一つであるといわれる[10]。

警察署襲撃

4,000人を超える連邦軍部隊(陸軍、および海兵隊)が投入された。
無罪評決が出たことが報道されると、黒人社会を中心に憤激が高まり、まず裁判所や警察署などを取り囲んで大規模な抗議集会が行われた[11]。ほどなくしてその一部が暴徒化し、まず警察署を襲撃、ついでロサンゼルス市街で商店への放火や略奪をはじめた[1][注釈 1]。

小規模な暴動及び抗議の動きはロサンゼルスだけではなくラスベガス、アトランタ、サンフランシスコをはじめとしたアメリカ各地、およびカナダの一部にまで波及した[12]。多くの抗議活動では、警察の過剰な取り締まりと無罪評決を強く批判するプラカードが掲げられた[13]。

暴動が発生すると、LA市警は現場に黒人警官のみを行かせるよう編成し[注釈 2]、現場近くにいた白人制服警官達には「現場に近づくな」との命令が発せられていた[14]。しかし暴動がさらに拡大すると、主な襲撃目標となったLA市警は自らを守るだけで手一杯の状況となり、暴動を取り締まることはできなくなっていった[13]。

4月30日夕刻、1973年から黒人として初のロサンゼルス市長をつとめていたトム・ブラッドリー(翌93年9月末退任)は非常事態宣言を発令した(5月3日に解除[2])。

レジナルド・デニー集団暴行事件
この暴動が勃発した初日、LA市内をトラック輸送仕事でいつも通り走行していた白人トラック運転手、レジナルド・デニーはフローレンス通りとノルマンディーアベニューの交差点で信号待ちをしていた際、主に若者を中心とした暴徒化した黒人らにキャビンから引きずり出されて暴行を受けた[注釈 3]。その内容は、コンクリート塊でこめかみを強打したり、倒れた被害者の頭部に数十キロの鉄の塊(エンジンブロック)を投げ落とすなどだった。またこの様子は地元TV局の取材ヘリから空撮されており、この衝撃的なシーンは幾度となく繰り返し全米にTV放送され、彼はロサンゼルス暴動におけるもっとも著名な被害者となった。なお、暴行を受けた後、彼はTVニュースでその暴行のライブ中継を見ていた地域住民の黒人によって助け出され[注釈 4][注釈 5] 、病院で開頭手術などを受け一命を取り留めている。

韓国系商店街への襲撃
警察署と並んでもうひとつの主たる襲撃対象となったのが、韓国系アメリカ人の経営する商店である。襲撃による被害額の半分弱が韓国系アメリカ人の商店であるとされている[15](カリフォルニア州と連邦政府による被害調査では、それらの店のすべてが米国籍を取得した韓国系移民か、英語しか話せない韓国系二世・三世の経営する店で[4]、米国籍を取得していない韓国人が経営する店は襲撃対象に含まれていなかった[2])。韓国系アメリカ人商店主らが防衛のために拳銃を水平発射しているシーンも幾度となくテレビにおいて放映された。そうした行為は群衆の略奪から身を守る正当防衛とみなされたためその後も司法責任を問われることはなかったが[15]、暴動を過激化させる一因になったとも指摘されている[4]。

そうした店主の中には、多くのベトナム戦争の帰還兵が含まれていた[8]。ベトナム戦争に参加した韓国人帰還兵に米国政府が移住許可を与えたため、70年代に韓国系移民が急増していたのである。彼らは主に競合相手のいない黒人居住区で商売を始め、従業員には黒人でなくヒスパニック系を雇うことがほとんどだった[16]。多くは黒人街とは別の場所に住居を持ち、また英語を流暢に話す者も比較的少なかったため、黒人居住区からは孤立した独自のコミュニティを築いていた[17]。商店とは別にある住居へ毎日帰宅する生活スタイルはユダヤ系など他人種の経営者も一般的に行っていたが、韓国系移民はその経済的成功が急激だったために、黒人社会では「自分達には打ち解けないのに黒人を相手に儲けている」というイメージが定着していったとされる[10]。

そうした黒人による日頃からの韓国系への鬱憤が暴動時の韓国系商店襲撃へと結びついた、とかつて指摘されたことがあるが[18]、しかし専門家らによる大規模な追跡調査によると、韓国系市民の経営する商店が襲撃されやすかったのは、それが単に黒人が多く住むエリアで最も成功した目立つ店舗だったからである[1][3][9]。実際に襲撃を行って逮捕された黒人たちへの聞き取りでも、韓国系アメリカ人そのものへの憎悪・反感はほとんど見られなかった[3][1]。また韓国系アメリカ人の店に限らず、プエルトリコ系・ラテン系など様々な人種の経営する店なども無差別に略奪・破壊の対象となっているうえ[9]、店舗を略奪した者のうち相当数は中国人や日本人、フィリピン人などの店を襲ったと信じていた[4]。

暴動終息へ
暴動鎮圧のために州兵は元より、4,000人を超える連邦軍(陸軍、および海兵隊)部隊までが投入された[19]。さらには司法省が、公民権法違反(第7篇。人種差別行為禁止)容疑でロドニー・キング事件を再捜査すると宣言したことによって、6日間にわたった暴動はようやく収束した[10]。

被害
一連の暴動・略奪によって、死者63名[20]、負傷者2383名、逮捕者1万2000名を出した[16]。またおよそ3600件の火災が発生し、1100件の建物が破壊され、4500の店舗や企業が略奪や打ちこわしにあった[16]。被害総額は10億ドルにも及んでいる[1]。被害の多くは韓国系アメリカ人が所有する建物や企業に集中している[3]。また死者の44%が黒人、31%がラテン系、22%が白人という調査結果が出ている[16][2]。

コリアタウンでの被害が拡大したのは、ロサンゼルス市警が白人からの通報に比べて韓国系アメリカ人やメキシコ系移民からの救援要請に対しては迅速に対応しなかったことも原因のひとつとされており[16]、のちにアジア系やプエルトリコ系・ラテン系など、マイノリティ市民の団体が共同で非難声明を出している[3]。

背景
ロサンゼルス暴動はロドニー・キング事件における白人警官への無罪評決をきっかけとして突如として起こったのではなく、その背景には長期にわたる人種間の緊張の高まりがあった[1]。

治安状況
事件が起きたサウス・セントラル地区ではアフリカ系アメリカ人の失業率が突出して高く、治安も悪化していた[15]。またLA市警による厳しい取り締まりも恒常化していた[4]。こうした黒人と抑圧する白人という根深い構造がアメリカにおける他の人種暴動と同様に、ロサンゼルス暴動の引き金を引くことになるが、ただし商店への襲撃や略奪行為には黒人だけでなくプエルトリコ系も加わったうえ、一部地域では白人・アジア系労働者も暴徒化したことが報告されており[10]、単に黒人と白人の対立だけでは説明できないと考えられている[2][1][4]。

マイアミ暴動
現在多くの専門家によって暴動のモデルになったとされているのは、1980年にフロリダで起きた「マイアミ暴動」である[3][4]。このときも同様に無抵抗の黒人が白人警官によって殴打されたが警官は無罪釈放となったため、やはり市内の広い範囲で略奪が発生している[19]。この事件は米国内マイノリティ住民の社会でその後も繰りかえし語り継がれたため、当時この事件をテレビ報道で見聞きしていた黒人やプエルトリコ系住民がロドニー・キング事件への怒りをマイアミ暴動と同様の形で表明することになった、と考えられている[9][3][4]。

人口比率の変動・人種間対立
暴動が始まったころのサウス・セントラル地区では、人種の割合も大きく変動していた。かつて居住者の大半を占めていた黒人に代わって、プエルトリコ系・ラテン系・アジア系の移民が急増した[1]。国勢調査によれば、同地区におけるプエルトリコ系・ラテン系住民の増加率は134%に達している[2][9]。

こうした中、以前は黒人が担っていた単純労働が、より低賃金のプエルトリコ系・メキシコ系市民へ移行しはじめると、黒人社会では不当に仕事を奪われているとして反発が高まった[2]。

またアジア系の中でも韓国系アメリカ人(コリアンアメリカン)は、それまで黒人の所有していた酒屋や雑貨店などを買い取って大きな成功を収めるようになった[15]。彼等の活躍が拡大して小規模なコリアタウンが形成されるようになると、黒人住民たちの間では経済格差が広がってゆくことに対する怨嗟・不満の声がきかれるようになった[8][9]。またそうした不満を背景に、韓国系アメリカ人の店では客扱いがひどい・商品が値上がりしているといった悪評が黒人社会で意図的に流されるようになっていった[3][1]。

大きな暴動・略奪の多くは市内のコリアタウン地区で発生したため、韓国系市民による黒人への差別感情や、韓国系市民と黒人社会との対立などが主因とかつて指摘されたことがあるが[1]、前述のとおり暴動の原因を黒人と韓国系市民の対立に求める見方は、現在では多くの研究者・ジャーナリストらの詳細な追跡調査によって明確に否定されており[9][4][2]、あくまでロサンゼルスという多人種都市における様々な人種間の緊張が背景になったと考えられている[2][16]。

1980年代後半のアメリカでは、そうしたマイノリティ間の反目や衝突が各地で起きるようになっていた[15]。1989年には、スパイク・リー監督が映画『ドゥ・ザ・ライト・シング』でニューヨークのブルックリンを舞台に、黒人・イタリア系・プエルトリコ系・韓国系など人種間の衝突が店舗襲撃へと発展する様子を描いている[21]。

ラターシャ・ハーリンズ射殺事件
ロドニー・キング事件のわずか13日後の1991年3月16日、韓国系アメリカ人の経営する商店で、黒人少女(当時15歳)であるラターシャ・ハーリンズを店主の斗順子(トウ・スンジャ、Soon Ja Du、当時49歳)が射殺する事件が発生した。

ハーリンズは持参したバックパックに1ドル79セントのオレンジジュースを入れ、手に支払いのための小銭を握っていた[22]。事件の様子は防犯ビデオに収められており、2人は揉み合いになったのちに少女が店主の顔面を4度殴打、店主は床面に激しく転倒させられた。店主は少女に椅子を投げつけた。その後、件のオレンジジュースをカウンターに置いて店から歩いて出て行こうとする少女に対して店主のトウは背後から銃を向け、その頭部を撃ち抜いた。

トウは逮捕され、事件の判決は同年11月15日に出された。陪審員は16年間の懲役刑を求刑していたが、判決では基本的に正当防衛が認められたため保釈後に刑期を務める必要のない「第三級謀殺」が言い渡され[15]、5年間の保護観察処分・ボランティア活動400時間・罰金500ドル、さらにハーリンズの葬儀費用を支払う、という内容だった[15]。大規模な暴動や略奪は1年後にロドニー・キング事件の警官が無罪で釈放されるまで起きていないため暴動との関係は現在では否定されているが[9][1][16]、ロサンゼルスの黒人社会では、銃器を持たない少女を背後から射殺するのは過剰防衛だとする意見が拡散され、アジア系市民に対する反感が高まる遠因になったとも言われている[15]。

ブラック・コリア
1991年11月5日、ラッパーのアイス・キューブはアルバム“Death Certificate”を発表。このアルバムのなかに収録された“BLACK KOREA”という曲において、韓国系アメリカ人の経営する商店に黒人の少年少女が入店すると、商店主が万引きしないか猜疑のまなざしで見たり、後をつけたりすることを歌詞でのべ、黒人社会と韓国人社会間に存在する軋轢を描いた。曲の最終部では、韓国系アメリカ人による黒人への侮蔑的な態度に対する鬱積した怒りを次のように表現した。

「 So pay respect to the black fist or we'll burn your store, right down to a crisp. …Cause you can't turn the ghetto - into Black Korea ……"I do fuck you!"

だから、「黒い拳」に敬意を払え さもなきゃ俺たちはお前らの店を燃やしてカリカリになるまで黒焦げにさせてやるぞ お前らにはゲットーをブラックコリア(韓国人街)に変えることなどできない 「ほんとうにブチ殺すぞ!」


発表時期とその歌詞内容からして、この曲がラターシャ・ハーリンズ射殺事件に代表される状況を指しているのは明らかだが、この曲が一般に広く知られるようになったのは暴動発生の後であって、曲と暴動の間に明確な因果関係はない[23][1]。また歌詞が人種差別的だとしてアジア系アメリカ人団体を中心に批判が起こり、のちにアイス・キューブは「自分は韓国系アメリカ人を尊敬しており、この曲に彼らをおとしめる意図はなかった」と釈明する謝罪声明を発表した[24][15]。

暴動以後
暴動後、司法省はロドニー・キング事件に関与した警官を公民権法違反で再捜査・起訴した。再審理の結果、現場で指揮を執る立場にあったクーン巡査部長と直接関与したパウエル巡査の2人が有罪評決を受けた(ブリセーノ巡査とウィンド巡査は無罪)。LA郡の連邦地裁陪審団は同市に対しキングに約382万ドル(当時レートで約3億9700万円)の賠償金を支払うよう評決を下した。キング側は「警官の暴行は人種的な背景によるもので、頭部を殴打されたため脳に回復不能の障害が残り視力低下や頭痛、集中力欠如などの後遺症に苦しむ」と主張。この評決が下される際も、暴動が再発するのではないかと緊張が走ったが、事前の警備が万端であった上にほぼ順当な判決が下されたこともあり、暴動が起きるようなことはなかった。
ロドニー・キング事件以来、「警官は悪だ」とのイメージが定着して、全米で警官の志願者が減少し、警察署は定員充足率9割強という人材不足に頭を悩ませている[25][リンク切れ]。
キングはのち、2012年6月17日ロサンゼルス市内の自宅プールで死去した。47歳だった[26]。
ロサンゼルス暴動を題材にした作品
音楽
アメリカのバンド、SUBLIMEのメジャー1stアルバム「SUBLIME」の5曲目「April 29, 1992 (Miami)」
アメリカのバンド、Rage Against The Machineの3rd.アルバム「The Battle Of Los Angeles」
アメリカのラッパー、Ice TによるヘヴィメタルバンドBody Countの楽曲「Cop Killer」。ロサンゼルス暴動当時の警察の腐敗や横暴を罵った歌詞[27]が物議を醸した。
映画
『わが街』:1991年公開。ロサンゼルス暴動の遠因となった異人種間、および異なる社会階層によって分け隔てられた人々を描いている。主人公(白人)が自分のレクサス・LS400で帰宅中エンジントラブルを起こし、黒人の暴漢に囲まれてしまうが、レッカー車に乗った黒人に助けられるというシーンがあり、奇しくもこの1年後に同じことが現実に起こった。
『マルコムX』:1992年公開。冒頭でマルコムXの実際の演説と共に暴行を受けるロドニー・キングの映像が挿入されている。
『カッティング・エッジ』:1994年公開(日本未公開)。暴動後のベニスビーチを描いている。
『ダーク・スティール』:2002年公開。腐敗した警察をロサンゼルス暴動に向けた時間軸で描いている。また、ロドニー・キング事件と、レジナルド・デニーを殴打している実際のシーンが挿入されている。
『ザ・LAライオット・ショー(英語版)』:2005年公開。事件を基にしたブラック・コメディ映画。スヌープ・ドッグが進行役として出演。
『マイ・サンシャイン』:2017年公開。暴動に巻き込まれていく家族が描かれる。
『LA 92(英語版)』:2017年公開。起点となったロドニー・キング事件から暴動集結までを全て実際の映像で振り返る。当時の大衆やメディアが人種差別をどの様に捉えていたか見ることができる。
『ポケットいっぱいの涙』
『ドゥ・ザ・ライト・シング』
『アメリカの息子』:2019年公開。1980年のマイアミ暴動で心に深い傷を受けた黒人女性とその白人の夫との葛藤を描く映画。「ロドニー・キング」の名前が重要な役割を果たしている。
漫画
『ゴルゴ13』:第101巻3話「カオスの帝国」、女性社会学者が専攻している「社会カオス理論」の実証のために暴動のきっかけとなったロドニー・キング事件を仕組み、更にその後の裁判で警察官が無実となるように操作して暴動を誘発するというストーリーとなっている。
その他
映画コラムニストのジャンクハンター吉田はロサンゼルスに居住していた時代に折から発生したこの暴動を体験した[28]。たまたま黒人達と鉢合わせになり生命の危機を覚悟したが、黒人から「おまえは韓国人(韓国系アメリカ人)か?」と聞かれ、自分が日本人であることを証明すると比較的安全な所に匿われ、周りが沈静化すると「ここは危険だから早くこの地区から逃げろ」と諭された[要出典]。
ドラマ『L.A.ロー 七人の弁護士』においてロサンゼルス暴動当日をエピソードにした回が存在する。
ドラマ『天才少年ドギー・ハウザー』においてもロサンゼルス暴動を題材にしたエピソードがある。主人公・ドギーの勤務する病院には暴動による負傷者が次々と運び込まれる。
ゲーム『グランド・セフト・オート・サンアンドレアス』 架空の1992年が舞台で、ロサンゼルスをモデルにした都市が登場し、終盤に大規模な暴動が発生する。
注釈
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^ 韓国人商店と間違えられて黒人商店の黒人店主からは「こんなの間違っている!お前ら(黒人)はどうして俺の商売を邪魔するんだ!!」等と憤りを見せた。
^ 黒人はこれらの者を見つけると「白人のイヌめ!!」「裏切り者の黒人警官帰れ!」とヤジを飛ばした。
^ 「メキシコ人は通せ!豚の白人はヤッちまえ!」と交差点で信号待ちをしていた他の白人達も次々と黒人達に襲われて交差点付近は交通事故が多発に発生した(黒人に襲われる前に急いで車から降りて急いで逃げ出す白人の映像もある)。
^ 黒人に集団リンチされる白人を近くを通りかかった黒人の女性達が制止する程。
^ 黒人の証言によれば黒人の女性達は事件時にリンチを受ける白人に覆いかぶさって「あのままじゃ殺されるよ!」「もうやめなよ死んじゃうから!」と暴行を加える黒人グループを制止していたとされる。
出典
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関連項目
ジョージ・フロイドの死
2020年ミネアポリス暴動
エリック・ガーナー窒息死事件
マイケル・ブラウン射殺事件
ストックトン銃乱射事件
ワッツ暴動(1965年に発生した暴動で、トラブルの原因がロサンゼルス暴動と酷似する)
デトロイト暴動
血の日曜日事件(1965年)
赤い夏
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Mapping the 1992 LA Uprising(関連地図)
Los Angeles – A City Under Fire Part 1
Los Angeles – A City Under Fire part 2
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執筆の途中です この項目は、歴史に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:歴史/P:歴史学/PJ歴史)。
執筆の途中です この項目は、アメリカ合衆国に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:北アメリカ/P:アメリカ合衆国/PJアメリカ合衆国)。
カテゴリ: アメリカ合衆国の事件 (1990年-)カリフォルニア州の事件ロサンゼルスの歴史アメリカ合衆国の暴動アメリカ合衆国のレイシズムアメリカ合衆国の警察不祥事反韓感情韓国系アメリカ人アフリカ系アメリカ人1992年のアメリカ合衆国民族暴動1992年4月1992年5月
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プロフィール

GaVaちゃん

Author:GaVaちゃん
元宗教家(昨今話題のいずれの教団とも関わりないですが、日本では歴史ある著名な宗教)の教団幹部として、多くの方の人生に関わってきました。
同時に、私自身の人生の経緯から東西の哲学・心理学を修めざるを得なくもなり、結果的に、人の心や行い、世の中に起きるさまざまなできごとを観る目を培うことができました。

宗教を離れてからも、有償・無償で人生相談、カウンセリング、それに準ずる活動をほぼクローズドで行ってきましたが、今後はSNS経由でも、ご要望ばあればお応えしていきたいと思います。


〈お応えできる内容〉
・集団ストーカー対策から
・恋愛♡相談、
・家族問題、
・SNSでのイザコザ、
人生をより豊かにスムーズに生きるために持っておきたい知識と知恵のアドバイスなど、
特に「相手」の存在するトラブルの解決については、
皆さまのお気持ちも汲ませていただきつつ、感情だけでは済まされない部分についても合理的・現実的・戦略的な知恵と具体的な方法論、行動指針を超実戦レベルでお伝えします。

・議論講座
本当に知りたい方だけ覚悟を有します。


得意ジャンル 哲学|心理学|社会学|戦略学|危機対応


・ディベートや論法、交渉代行も行ってます。 心理哲学の質問等はRTやDMもOKです。※ご依頼はツイッターのDMまで

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