はじめに
主体思想(チュチェ思想)とは
主体思想とは、北朝鮮が掲げている政治思想である。金日成はこの思想を「革命と建設の主人
は人民大衆であり革命と建設を推進する力も人民大衆にあるという思想」「自分の運命の主人は自
分自身であり、自分の運命を開拓する力も自分自身にあるという思想だ」と解説している1。北朝鮮
はこの政治思想に基いて行動をとっているとされている。
しかし、実際の所、大国のはざまで自主を守ろうとした北朝鮮が金日成という個人に権威と権力を
集中する過程で使われたもの2であり、特別な政治思想は組み込まれていない。金日成の死後は、
主体思想の権威をもって統治を行うために内容が変更された。金正日時代の北朝鮮では主体思
想と共に先軍思想なるものが生まれた。これもまた、冷戦構造の中で北朝鮮が自主を守るために
用いた思想であり、金正恩に引き継がれていった。
本稿では、いかに主体思想が時代の変化とともに姿を変えていったのかを見つつ、この政治思
想に哲学的意味がないことを明らかにしたい。
第1章 初期の主体思想
1-1.マルクス・レーニン主義の当てはめ
主体思想の始まりは、旧ソ連主導の北朝鮮建国である。第二次世界大戦が終結し、アメリカとソ
連による朝鮮半島の共同統治が始まった。しかし、ソ連は朝鮮半島の北部3を自分達の息のかかっ
た国にしようとしていた。その理由は大きく分けて2つある。1つは植民地政策である。第二次世界
大戦が終わり、植民地をめぐる覇権争いに終止符が打たれた。それにより、直接的に植民地を所
有することが難しくなった。そのため、間接的に統治の効きやすい国を作ろうとしたのだ。
2つ目の理由は共産主義圏の拡大である。第二次世界大戦後、世界は自由主義陣営と社会主
義陣営の東西対立が起こっていた。そのため旧ソ連は北朝鮮を社会主義陣営拡大に寄与させよう
としていた。
北朝鮮をソ連の配下に置くための政策は、東ヨーロッパや中国を社会主義国へ展望させた方法
と同じである。マルクス・レーニン主義を基本概念とし、その国へ合うように手直しするのだ。例えば
中国だ。中国では毛沢東が、マルクス・レーニン主義を、中国独自の毛沢東思想に変更した。北朝
鮮でも同様の事がおこなわれた。それに担がれたのが、金日成である。旧ソ連では、スターリンが
絶対的な権威であった。そのため、北朝鮮でも金日成を絶対的な権威にするような政策がとられた。
1石坂 浩一『北朝鮮を知るための51 章 エリア・スタディーズ』東京:明石書店、2006年、68頁
2 同書、67
3 のちに北朝鮮となる
ソ連は、金日成が行っていた抗日パルチザン4を掲げ、金日成を民族的英雄へ仕立てあげていっ
た。
つまり、主体思想の始まりは旧ソ連主導による北朝鮮建国であり、マルクス・レーニン主義の北朝
鮮への当てはめであった。もちろん、現在の北朝鮮が掲げているような思想ではないし、その当時
において主体思想という言葉は使われてはいなかった。
1-2.初期段階――ソ連批判
初めて主体について言及するのは1955年、12月28日の事である。金日成が演説の中で発し
たのであった。徐大粛は、この演説に反ソ連的な内容が含まれていることに注目している5。金日成
は、朝鮮革命を知るには、朝鮮についてよく勉強すべきであると言う。朝鮮の歴史・地理・文化・風
俗を勉強する必要があり、朝鮮の労働者たちに朝鮮の歴史を正しく教えなければならない。その後、
名指しでソ連派を批判した。林昌玉は朝鮮プロレタリア芸術同盟の作品を認めず、ソ連の物のみを
良いとしていると言った。また、朝鮮史を学ばず外国の歴史を好むのは良くないとした。朴永彬に
は、彼がソ連が国際緊張緩和のため反米スローガンを降ろしたと語ったことに対し、それは人民の
革命的警戒心を弱めると批判した。奇石福には、彼が『労働新聞』を作っていた時のことを挙げ、ソ
連の新聞『プラウダ』によく似ているとし、外国の形式にのみ従うのは百害あって一利なしだと語っ
た。
また他にも様々な分野にも言及した。朝鮮人民軍休養所では、朝鮮の絵がなく、シベリアの雪景
色が描かれている。経済発展においても、ソ連の五カ年年計画の図表が貼ってあるところはあるが、
北朝鮮の三カ年計画の図表はない。教科書を作る際にも、ソ連の文学作品のみを引用し、北朝鮮
の作品は使われないなど、歴史・地理・文化・風俗など多岐にわたり言及している。
ソ連派を名指しで批判したことや、数々の例を挙げている点で、金日成が強烈にソ連を批判して
いるのが分かるだろう。金日成がソ連を批判したのには2つの理由がある。1つは、自分の権力を
独裁的なものにしようとしていたことだ。第二次世界大戦終結後の北朝鮮は、ソ連主導のもと朝鮮
共産党が再建された。その中には大戦中、朝鮮内で抗日活動を行っていた国内派、中国東北部
にいた中国派、ソ連国籍やソ連共産党籍を持つソ連派、そして金日成がいるパルチザン派の4つ
の派閥があった。金日成は、始めに朝鮮戦争に勝利出来なかった責任を押し付け、国内派を粛清
した。そして次にソ連派を粛清しようと考えていたのだ。
もう1つは、ソ連への不信感が募っていたことだ。徐大粛は、北朝鮮がソ連に不信感を募らせてい
た原因を次のような理由があるとしている6。1つに、朝鮮戦争の中、戦況が悪化したためソ連に軍
4 第二次世界大戦中、日本を相手に行った武力闘争
5徐大粛『金日成と金正日━━━革命神話と主体思想』、古田博司訳、東京:岩波書店、1996年、
133頁~136頁
6同書、131頁~132頁。
隊派遣の要請をしたが、要請には応じなかったこと。2つにソ連に1953年に経済援助を要請した
際、1954年~55年にかけての返済を取り決められ、全額回収されたことである。また、スターリン
死去により親しい関係であったソ連大使スチコフが帰国したことも理由の1つであろう。さらに、東
西が対立している中で軍隊を派遣しないという事実は、ソ連が社会主義国の大本として北朝鮮や
社会主義陣営をどう見ているのか、金日成を混乱させた。そのため彼は次のように主体を打ち立て
た7。
「我が党の思想事業において主体とは何なのでしょうか。我々は何処かよ
その国の革命ではなく、まさに朝鮮革命をしているのです。この朝鮮革命こそ我が党思想事
業の主体なのです。それゆえ、すべての思想事業は、必ず朝鮮革命の利益に沿っていなけ
ればなりません。[・・・・・・]事業から革命的心理、マルクス・レーニン主義的心理を我が国の
実情にあわせて作用するのが重要であります。しっかりとソ連式のようにさえすればいいという
原則は存在することが出来ません。[・・・・・・]今は、われわれ式を作るときではなかったでしょ
うか」
このように、「われわれ式」という言葉を使い北朝鮮の主体を打ち立てている。そして、主体性を
持って北朝鮮のパルチザン伝統や、革命家を勉強しなければならないと説いた。
また、北朝鮮における農業の共同化の速度が早過ぎて妙だと語るソ連人を例に挙げ、これは北
朝鮮では当然のことであるとし、「われわれ」を強調しつつ、自国の政治形態や政網に合わせマル
クス・レーニン主義の原則を脱するべきであると主張した。この様に、初期の主体思想は反ソ連を
軸に唱えられたものであり、その上で自分たちの主体を見出そうと訴えていたものであった。
1-3.中期――軍事的主体
再び金日成が主体思想について語ったのは、1963年のことであった。2月8日に金日成は、朝
鮮人民軍の創立15周年記念式典において、人民軍部隊政治部副連隊長以上の幹部と党、政府
の指導者に向けて演説を行った。そこで、自主と自立を語り、新兵の兵士を主体思想で武装させ、
ソ連の修正主義の影響を受け、腑抜けにされることのない真の朝鮮人兵士に鍛えあげるように支
持した。
ここで重要なのは、金日成が軍関係者に演説を行ったこと。そして、ソ連をさらに批判している点
である。ソ連は、北朝鮮に対して軍装備費、経済援助を中止している。1955年に次、ソ連批判を
行ったのはこういった援助が打ち切られたためであろう。徐大粛は、朝鮮人民軍の創立一五周年
7金日成「思想事業から教条主義と形式主義を退治し、主体を確立することに対して」『金日成著
作集9』、金日成、朝鮮労働党出版社、1980年、468頁~478頁を参照
なお筆者は原著未読。本稿では、伊豆見元、張達重『金正日体制の北朝鮮━━政治・外交・経
済・思想』、東京:慶応義塾大学出版会、2004年、15頁を参照
記念式典にこの演説を行ったことに意味があるとしている8。ソ連からの軍装備費が受けられなく
なったので、自分自身で安全保障を行う必要があり軍事費を増やさなければならないからだ。
また、金日成はここで初めて軍事的主体を語り、主体思想の一部を明らかにした。1963年、10
月5日の金日成軍事大学の第七期卒業生に対する演説で、「主体思想で武装した軍隊は、近代
兵器で武装した軍隊よりも強く、また人民軍の兵士が着ている制服は、数年前までは輸入繊維で
出来ていて、兵士たちは輸入穀物を食べていたが、今では全て自力更生でまかなっている」と語っ
た9。
今述べた1963年に行われた主体についての演説は、1955年に行われたソ連批判を追撃した
ものであり、また、北朝鮮独自の軍事路線の先駆けであったのだ。
1-4.後期――北朝鮮独自路線化
1955年と1963年にわたり金日成は、主体思想について言及してきた。1955年には「われわれ
式」という言葉を用い北朝鮮に独自の思想が必要であることを明らかにした。1963年には軍事的
に独立しなければならないとし、「われわれ式」の内容を若干明らかにしている。
しかし、この時点では依然として主体思想の全貌は明らかではない。現在の北朝鮮では、主体
思想は唯一思想体系であるとしている。このようになったのは1965年以降のことである。
1965年の4月14日、金日成はインドネシアのアリ・アルハム社会科学院において演説を行っ
た。そこで金日成は、朝鮮労働党の主体思想は「一貫して堅持している」思想だとし、初めて主体
思想とは唯一思想体系だと語った。
また、主体思想とはどのようなものなのかについても詳しく言及した。基本政策はこうである。思
想での主体、政治での主体、経済での自立、国防での自衛だ。さらに、金日成は主体とは何かを
説明している。主体の基礎は人間であり、人間は主体であってあらゆる問題を決定するのは人間
であるとする。社会主義建設の主人は人民大衆であり、革命及び建設を担う力は民族大衆にある。
また個々人の人間の運命を左右するのもその人間自身であって、人間の運命を支配する力は人
間自身にある。また主体を確立するとは何か。それは自分の頭脳を用い、自分の力を信じ、自力更
生の革命的精神に依拠し、他人への依存を排して自力で革命及び建設に取り組むことだ10。
また「われわれ式」とは何なのか。それは、「マルクス・レーニン主義の一般原理と他の国家の経
験」を「我が国の具体的条件、われわれの民族的特性に合わせて創造的に作用」することであると
した11。われわれの民族的特徴とは何であろうか。金日成は、主体とは朝鮮革命そのものだとして
8徐大粛『金日成』、林茂訳、東京:講談社、2013年、442頁
9 徐大粛『金日成』、林茂訳、東京:講談社、2013年、442頁~443頁
10金日成著作集5巻202~316
なお筆者は原著未読。本稿では、徐大粛『金日成』、林茂訳、東京:講談社、2013年
、434頁~440頁を参照
11同書、434頁~436頁
いる12。つまり民族的特徴は朝鮮革命であり、「われわれ式」とは朝鮮革命に帰属しているということ
だ。これが後に金日成の抗日活動を神話化、また金日成を神格化していく基礎となる。
伊豆見元は主体思想を、北朝鮮の唯一の思想とすることで、この思想の格上げを行ったと分析
している13。初期から中期の主体思想は、ソ連批判が中心となっており、ソ連と距離を置くためのも
のであった。さらに、主体思想の中身については曖昧にしていたり、一部分だけしか言及してこな
かった。
しかしこのインドネシアのアリ・アルハム社会科学院で行った演説では主体を大々的に打ち立て、
独自路線を進んだ。それは、北朝鮮が中ソ対立の狭間にいたためである。中ソ対立は1960年代
に始まった同じ社会主義国同士の対立である。社会主義国家である北朝鮮も自分の立場を表明
しなければならなかった。しかし、どちらか一方に肩入れをしてしまうのはリスクである。そこで金日
成は、どちらの側にも付かず中立をとるという意味で主体を打ち出したのだ。
それ故、1966年10月の党代表大会で、今まで行っていたソ連批判だけではなく、文化革命を
否定し中国をも批判した。このことから、主体思想は北朝鮮が独自路線を進むために用いられたと
分かる。
1-5.新憲法制定
1972年北朝鮮は最高人民会議第5期第1回会議で新たな憲法を制定した。この憲法は11の
章から成っているが、第1章の政治という項目の第4条に、主体思想を明記した。次にその文を引
用する。
朝鮮民主主義人民共和国は、マルクス・レーニン主義をわが国の現実に創造的に適用した
朝鮮労働党の主体思想を自己活動の指導的指針とみなす。
この新憲法で初めて北朝鮮は主体思想を明記し、党の指導的指針であるとした。また、後述す
るがこの時点ではマルクス・レーニン主義という文字があり、主体思想もそこから出来ていることを認
めている。
1-6.主体思想の起源
今まで述べてきたように、主体思想の始まりはマルクス・レーニン主義であり、初めて主体につい
て言及するのは1955年のことである。しかし現在の北朝鮮では、1930年6月30日に初めて主
体思想について演説したと主張している。また、1930年から40年代にかけても主体思想につい
12同書、434頁
13伊豆見元、張達重『金正日体制の北朝鮮━━政治・外交・経済・思想』、東京:慶応義塾大学出
版会、2004年、14頁
ての演説を行ったとしている。
だが、これは虚構である。徐大粛も、それらは1970年代になって書かれた偽物であるとしてい
る14。1930 年6 月30 日に初めて主体思想について演説したとされる報告が公開されたのは、
1978年のことであるが、この頃から金正日による金日成神格化キャンペーンが始めっており、その
ために歴史の書き換えを行ったのである。
その上、金日成が初めて演説を行ったとされる1930年、彼はまだ18歳であるのだ15。その時、
金日成は「朝鮮革命は朝鮮人自身によって遂行されねばならない」と語ったとしている。しかし、当
時から主体思想を持ちつつ、中国共産党のもとでパルチザン活動を行うことは考えられない。金日
成は1930年代に抗日活動を行っていた。彼は88特別旅団という部隊に属していたとされるが、
それは1940年代にソ連が養成した部隊である16。彼らは、東北抗日連軍が元の出身であり日本
軍の追討をかわすためにソ連領に入った者達で組織された。東北抗日連軍は中国共産党主導に
よる中国人によって作られた、中国人と朝鮮人からなる抗日遊撃隊連合なのだ。中国人と朝鮮人
連合の部隊で、金日成が言うような「朝鮮革命は朝鮮人自身によって遂行されねばならない
とする、朝鮮人のみの主体を打ち出すのは困難である。
1-7.「主体」思想成立の背景(この節は内容や場所を変更する可能性あり)
北朝鮮では、主体思想を巧みに使い国家運営を行っている。今では北朝鮮は主体の国と呼ば
れるほど主体思想が広まっている。ここでは、なぜ「主体」思想が――政治的に利用されるもので
あっても――生まれたのかを考えたい。小此木政夫は、主体思想について次のように述べている17。
「自主」を上から民衆に押しつけ、強制的に「主体の確立」を人民に求め続けるという今日の主
体思想が内包する根本的矛盾は、「事大主義」を「大国依存」と単純に読み替えた金日成が、
自国の歴史に対して抱いていた嫌悪感と、そこに安住していた自民族へのぬぐい去り難い不
信感に起因するものと見ることができる。
小此木政夫の言う通り、北朝鮮国民は強制的に「主体の確立」を求められ、金日成や金正日を崇
拝しなくてはならない。これは北朝鮮が、強固な独裁体制や監視社会システムをひいており、幼い
時から洗脳教育を受けているからなのは間違いない。しかし、それだけが「主体」思想の国になっ
た理由ではない。
14 440 p
15金日成については様々な説がある。しかしどれをとっても1930年から~40年代に行われたとさ
れる主体思想についての演説は架空のものに過ぎない。
16
17小此木政夫『金正日時代の北朝鮮』、東京:日本国際問題研究所、1996年、255頁
宮崎俊輔――帰国事業により北朝鮮へ渡ったが脱北した――は、1994年の北朝鮮で起こった
飢饉の際に奇妙なことがあったと語っている18。それは金正日への不満を言ったとしても、体制その
ものをひっくり返すという発想をする人がいなかったということだ。また、「もうこうなったら戦争しかな
い」や「飢えて死ぬくらいなら戦って死んだ方がましだ」などといった考えが広まっていたとも語って
いる。飢え死に寸前だというのに、支配者を倒そうとするどころか支配者の思うところを実行しようと
さえ思っているのだ。
つまり、金ファミリーの洗脳だけではなく、歴史的な背景が大きく関わっているのだ。朝鮮半島の
歴史を紐解いてみると、朝鮮人自身が朝鮮半島を統治していた時代は短い。朝鮮の歴史は中国
の歴史の中にあると言っても過言ではないだろう。朝鮮半島は、モンゴル帝国や時の中国大陸の
支配者によって統治されていた属国であった。
また日清戦争が終わり、朝鮮半島は独立したが、1910年、日本に併合された。第二次世界大
戦後も、朝鮮半島を韓国と北朝鮮という二つの国に分断され、アメリカとソ連が間接的に統治をし
ていた。倉山満も、歴史的背景から朝鮮半島には「主体」(Actor)はなく、いつも「場」(Theatre)で
あり、周辺諸国に翻弄されていたと語っている19。
いつも朝鮮半島が独立を得るのには他国の力を借りている。日清戦争や、第二次世界大戦が
良い例である。抗日パルチザンも朝鮮人によるものではなく、中国共産党が主導した部隊に朝鮮
人が加わっていただけなのである。そのため、金日成が言った「主体」は朝鮮人が今までに経験し
たことがないものであった。
また「自主」を上から民衆に押しつけ、強制的に「主体の確立」を人民に求める金日成の指導も
朝鮮人にとってみれば不思議なことではない。長い間統治されてきた朝鮮人からしてみれば、逆に
自然なことではないだろうか。フロムが語ったような「自由からの逃走」20も彼らには当てはまるだろう。
第二次世界大戦が終わり、長い間拘束されてきた朝鮮人は開放された。しかし、その自由をうまく
扱うことが出来ず、金日成という超独裁的な指導者に盲従したのだ。
第2章 金正日の主体思想
18宮崎俊輔『北朝鮮脱出 地獄からの生還』、東京:新潮社、2002年204頁~205頁
19倉山満『嘘だらけの日刊近現代史』、東京:扶桑社、2013年、14頁~16頁、47頁~50頁を参
照
20西川吉光『マスター政治学━━一般教養&就職・公務員試験合格ブック』、名古屋:三恵社、
2014年、14頁や、苫野一徳「フロム『自由からの逃走』
(http://ittokutomano.blogspot.jp/2012/01/blog-post_2023.html 観覧日2014年7月12
日)を参照
2-1.権力の継承
1972年の新憲法において、主体思想は成文化された。これにより、北朝鮮は他の社会主義国と
決別し、独自の路線を進むことが明確となった。これまで説明した通り、初期の主体思想とは元々
はソ連が北朝鮮の間接統治を行うために、マルクス・レーニン主義を北朝鮮に当てはめたものであ
り、その後、中ソ対立を避け、独立を守るための思想に変化していった。この章では、次なる主体思
想の移り変わりを見ていく。
次に主体思想が変化したのは金日成から金日成へと権力が継承されたためである。金正日は、
金日成の死後国家のトップに立った。しかし、それ以前に権力を後継するための準備が行われて
いた。金正日は自分が金日成の後継者となるのを正当化しようとしていたのである。金正日を宣伝
扇動部など重要な役職につかせ、党内での実力を付けさせていたのだ。金正日は、その中で主体
思想を利用した。主体思想を金日成主義化することで、それを変更する自分自身の格上げを行い
後継者となるのを正当化しようとしていたのだ。金日成を否定することは誰も出来ない。そのため主
体思想を金日成主義化する自分自信も否定されないと考えたのであろう。
小此木政夫は唯一の思想体系である主体思想を変更することによって、金日成と同じ権力を持
つ正当性を見出そうとしていたと考えている21。そのため金正日は主体思想を金日成主義にするた
め、多くの活動に力を注いだ。1970年には、金日成バッジを考案してその作成を支持した。さらに、
報道・出版物の中で使用される金日成という活字を大きくするようにもした。1974年2月には全国
党宣伝委員会において、主体思想を金日成主義として定式化せよと言った。1979年には、主体
思想の塔や凱旋門を作らせた。また、主体思想の発展にも力を入れた。1974年には主体思想に
関する論文を5つ発表している。このように、自国の独立を完全に宣言した後の主体思想は、金正
日に最高指導者の地位を継承するために変更されていくのであった。
2-2.権力強化
金正日が権力移行を確かにした後、彼は主体思想の独自の解釈を打ち出していった。1987年
7月には、主体思想教化について講話を行い10月には、党中央責任幹部たちに主体の革命観
念について語っている。主体の革命観念とはこうである22。
主体を唯一の思想として信奉する国には首領がいなくてはならない。首領は社会政治的生命
体の最高指導者であり、脳髄である。人民は脳髄たる首領に、無条件に服従しなければなら
ない。また、このような社会では首領と大衆を繋ぐ全ての社会政治的組織は党が領導する。こ
の組織を離れては、誰も首領と繋がることができず、永生する社会政治的生命体の一員たり
えない。
21小此木政夫『岐路に立つ北朝鮮』、東京:日本国際問題研究所、1988年、19頁~20頁
22徐大粛『金日成と金正日━━━革命神話と主体思想』、古田博司訳、東京:岩波書店、1996年、
229頁
この新解釈には2つの重要なポイントが有る。人民は脳髄たる首領に、無条件に服従しなければ
ならないと、自らをも神格化させようとしている所である。そして、金正日が今までとは異なった新し
い主体思想の解釈を打ち出していることである。
徐大粛は、これは金日成が初めて案出した主体思想と、その用途や思想的発展過程が決定的
に異なっていると分析している23。確かに、金正日の新解釈には金日成が出したような主体的な思
想は見受けられない。
さらに、1992年には20年ぶりに憲法を改めている。憲法から次のように、「マルクス・レーニン主
義」の字句を消去したのである24。
朝鮮民主主義人民共和国は、人間中心の世界観であり、人民大衆の自主性を実現するた
めの革命思想である、チュチェ思想を自己の活動の指導指針とする。
これらは、自分の権力を固めるために行った。金日成と異なった主体思想解釈を行っていること、
自信を神格化させようとしているのが理由である。これにより、金正日が金日成を上回っていること
を示した。
2-3.主体思想は経済に
権力が金日成から金正日に移り変わっていく過程で主体思想は、経済にも導入され始めた。しか
し、経済は人が主体的に行動すれば――命令すれば、思った通りに動くというのは間違っている、
というのは明快であり一般的にも広く知れ渡っている。
しかし北朝鮮では主体農業や主体工業という名で無理な経済が続いている。主体農業では、主
体的であれば生産量を増やせるということで、田や畑一面、隣の作物と作物の間がないほど種を
植えた。もちろんこれは収穫量の低下を招いた。作物が育てば育つほど、作物の丈が長くなり、隣
の作物に日が当たらなくなるからだ。また、一つ当りの作物が得ることのできる栄養も小さい。李佑
泓は、主体農業によって行われた段々畑計画がさらに、北朝鮮農業をダメにしたと語っている25。
段々畑計画により、北朝鮮内の山という山に農作物が植えられた。しかし、山は水を貯めこむ自然
のダムの役割をしている。それを北朝鮮では、ほとんどの山を畑にしてしまった。そのため、一度大
雨が降ると、土砂崩れが起こり、山に植えてあった作物が流れるだけではなく、普通の田や畑の農
23同書、230頁~231頁
24同書、225頁
25李佑泓『どん底の共和国━━北朝鮮不作の構造』、東京:亜紀書房、1994年、38頁~46頁、
110頁~114頁、190頁~196頁を参照
作物も流れてしまうという。さらに、山から流れてくる石が作物の成長を阻害する。また、工業につい
ても同様である。北朝鮮には、鉄筋や鉄骨さらには木材といった建物を建築できるような素材ほと
んど有していない。
しかしながら主体的に建物を建てなければならない。そのため、街中では鉄筋や鉄骨がない、
ハリボテのような建物が多く存在している。また、北朝鮮には銅線を作成できる技術を有していない。
また電力供給に付随する技術及び機械も非常に貧弱である。しかし、例によって主体的に工業を
行わなければならない。そのため、工場内の機械に無理やり電力を供給している。しかし、その電
力は非常に微弱で、安定していない。その故、機械が故障し、さらなる生産率の低下を呼んでい
る26。このように経済に導入された主体思想は、負を生み出している。
第3章 先軍政治という新しい概念(作成中)
→第4章との兼ね合いもあるのでまだ色々不十分です
3-1.先軍思想とは
今まで見てきたように、金日成と金正日の主体思想解釈は異なっている。主体的要素も薄れてい
る。しかし、これも当然のことである。もともと主体思想は中ソ対立の中で北朝鮮が生き残るために
打ち出した思想であるからだ。冷戦が崩壊した今、昔のように独自路線の主体を打ち出すことに意
味は無い。そこで生まれたのが先軍政治である。
北朝鮮の機関紙、労働新聞によると先軍政治とは、「革命と建設に関するすべての問題を軍事
先行の原則で解決し、軍隊を革命の柱にする政治方式」27であるとしている。しかしこれもまた、金
正日が権力を掌握するために持ちだされた政治思想である。この章では、先軍政治がどのように
生まれ発展していったのかを見ていく。
北朝鮮では先軍政治の出発点は、1995年の元旦に行われた金正日の朝鮮人民軍訪問である
とされている。しかし、鐸木昌之は、先軍政治の始まりを1994年10月16日、金日成死後の百日
喪に際して、党中央委員会責任活動家の前で行った「偉大な首領様を永遠に高く奉り、首領様の
偉業を最後まで完成しよう」と題する演説だと分析している28。
この演説の中で、金正日は人民軍の強化と軍事を重視する社会的気風を作ることを強調した。
人民軍を強化するための重要な課題として、軍が党の軍隊として、「いかなる逆境の中でも党の偉
26李佑泓『暗愚の共和国――北朝鮮工業の奇怪――』、東京:亜紀書房、1994年、49頁~54
頁、100頁~105頁、150頁~190頁を参照
27先軍政治 国内統制の万能薬(北朝鮮の素顔 第2 部・政治体制5)、『朝日新聞』、2003年5
月3日、朝刊
28『北朝鮮首領制の形成と変容――金日成、金正日から金正恩へ』(明石書店, 2014年)264頁
業に忠実であり、わが党と生死生命をともにする革命的気風を徹底的に作り上げなければならな
い」ことを挙げた。それゆえ、彼は「軍隊を掌握できない党は、威力を発揮することができず、党の
領導を受けることのできない軍隊は、力のある戦闘部隊になることはできない」と語った。したがっ
て「今日わが国では党こそ軍隊であり、軍隊こそ党である」と結論付けた。
ここで、なぜ金正日は先軍政治という「軍」を全面に押し出した思想を持ちだしたのだろうか。そ
れは次の様な理由のためである。1つは冷戦の崩壊である。1989年、東欧に存在していた多くの
社会主義圏で政治変動があった。ベルリンの壁崩壊が良い例である。北朝鮮の隣の国、中国でも
同年、北京の天安門広場で民主化を求めるデモが発生した。その中でもルーマニアの革命は金
正日にとって衝撃的であった。チャウシャスク大統領が軍によって処刑されたのだ。中国では、この
民主化を求めるデモを人民解放軍が弾圧した(天安門事件)。中国のように軍が政権側につけば体
制維持が図れるが、もしルーマニアの様に革命側についてしまったら自分自身の体制が崩壊して
しまう。そう金正日は危機感を持った。そのため、先軍政治思想を持ち出し、軍を政権側に留めよう
としたのだ。また、東ヨーロッパに留学していた軍人たちを粛清している。ここからも、軍によるクー
データーを多大に警戒していたことが伺える。
2つ目の理由は権力の完全な掌握のためである。確かに、金日成が存命中の時から金正日へ権
力を移行する準備が整えられていた事は確かである。金正日を重要な役職に就かせたり、主体思
想を金日成主義化することで、自分自身の格上げを行っていた事は説明した通りである。しかし、
金日成の死後①金日成、金正日に次いでナンバー3の地位を占めており、金正日の後見人と言
われ、人民武力部長と朝鮮人民軍総政治局長を兼任していた呉振宇も死んでしまったことや、②
この時期の北朝鮮は、絶望的とも言える食糧危機と、構造的な経済危機に瀕しており、こうした状
況を鑑みた軍人が金日成世代の政策を否定し、中国やソ連の様な改革開放路線を支持する動き
を警戒したためである29。この様に、先軍政治とはただ単に全てにおいて軍を優先する政治思想で
はなく、金正日の権力の掌握と強化のために使われたのだ。
先軍政治という言葉は1998年、金正日が正式に国のトップになるとしきりに使われ始めるように
なる。礒崎敦仁は1998年の9月の憲法改正によって、先軍政治が法的に担保されたとしている30。
その憲法改正によって国防委員会の職務・権限が大幅に拡大されたのが理由だ。1998年12月
18日の『民主朝鮮』では、「軍事重視思想を具現したのはわが共和国憲法の重要な特徴」と題す
る論説を掲げ、改正憲法の重要な特徴の1つとして「国家機構体系において朝鮮民主主義人民
共和国国防委員会の昨日に重大な意義を付与した」ことを挙げている31。
29東アジア危機の構図 - 小此木政夫, 小島朋之 149-153
30危機の朝鮮半島 (現代東アジアと日本) – 2006/12 288頁
31危機の朝鮮半島 (現代東アジアと日本) – 2006/12 288頁
公式報道としは、同年の10月10日の労働新聞において初めてに次のように現れた。
「強盛大国を建設するためのわが党の闘争は, 敬愛する金正日同志の独創的な先軍革命領
導に彩られている。 先軍革命領導は常に不可能を知らず, 勝利のみを生み出す偉大な金正
日政治の根本的特徴である。 すべての党員と人民は, わが党の軍事重視思想を奉じて, わが
祖国を軍事強国として一層輝かせ, 軍民一致の微風を引き続き高く発揮しなければならない」
3-2.先軍思想へ
2004年6月16日、労働新聞は「先軍思想をわれわれの時代の革命の指導的指針としてしっか
りつかんでいこう」と題する論説を掲載し、次のように述べた32。
先軍思想は、過去40年間、天才的英知で時代の行先を明らかにし、円熟し精錬された領導
でわが党と軍隊と人民を輝かしい勝利と栄光の道へと導いてくださった敬愛する金正日同士
の偉大な革命活動の思想理論的総括である。先軍思想は、わが党の全ての路線と政策の礎
石をなし、その独創性と革命性、不敗の戦闘性と生活力を担保する基本理念である。
礒崎敦仁と澤田克己は、これをもって先軍思想は、理念的に主体思想と同列に称されるようになっ
たとしている33。
また、2005年10月4日の朝鮮中央通信では、次のように述べ、先軍思想は主体思想と並ぶ朝鮮
労働党の「指導的指針
とされるようになっている34。
朝鮮労働党は主体思想とそれに基づく、先軍思想を指導的指針とする新しい型の革命的党
である。(中略)主体型の革命的党としての朝鮮労働党の建設史は、先軍で開拓され、打ち固
められた先軍型の党建設史である。朝鮮労働党にとって、主体は先軍であり、先軍は主体で
ある。
1999年には、先軍思想という言葉が誕生した。その後、主体思想と並列で出てくるようになった。
32 危機の朝鮮半島 (現代東アジアと日本) 296
33礒崎敦仁、澤田克己『LIVE講義 北朝鮮入門』、東京:東洋経済新報社、2010年、183頁
34危機の朝鮮半島 (現代東アジアと日本) 296
2005年には先軍政治開始10周年になるとし、研究発表や研究討論会、総進軍大会などが立て
続けに開催された。しかし同年の8月に突如、先軍政治の始まりが1960年に繰り上げられた。こ
れは、北朝鮮にとってどれだけこの思想が重要であるかを物語っている。礒崎敦仁と澤田克己は、
金日成が主体を打ち立て、朝鮮人による抗日活動を始めたのが18歳であり、またこの繰り上げに
よって金正日の先軍思想の先駆けも18歳であるとし、軍事関係のスタートを同年齢にしたことに意
味があると分析している35。それは、金日成の抗日ゲリラ闘争に匹敵する歴史を作ること。そして、
軍務経験のない金正日の正当性強化のためだ。
第4章 金正恩の主体思想(作成中)
4-1.党規約と憲法改正
金正恩体制がスタートしたのは、2011年からであるが、その前から金正日の後継者としての準
備が始まっていた。2009年には、憲法と党規約を改正した。憲法では、第3条を、「革命思想であ
る主体思想」から、先軍思想を追加し、以下の様な条文にした36。
朝鮮民主主義人民共和国は、人間中心の世界観であり、人民大衆の自主性を実現するため
の革命思想である主体思想、先軍思想を自らの活動の指導的指針とする。
この改正では初めて憲法に「先軍」思想を明記した。それにより、軍隊を最優先する制度的基盤が
確立された。
それに加え、党規約を改定した。条文では、「朝鮮労働党は先軍政治を社会主義の基本政治方
式として確立し、先軍の旗の下で革命と建設を領導する」とした37。また、先軍思想が主体思想と並
び、「指導的指針」となっている所にも注目したい。主体思想が「指導的指針」となったのは、1972
年の新憲法制定で、中ソ対立の狭間で自らの独自路線を打ち出すことにより国を守るためだったと
説明された。それだけ重要な「指導的指針」である主体思想に先軍思想が並んだのだ。
また、金正日が金日成を神格化したように、金正恩も金正日を神格化した。2012年4月11日、朝
鮮労働党の代表者会で、党規約のこれまで「主体思想」としていた部分を「金日成・金正日主義」
に改めた38。また、党の唯一思想体系確立の10大原則を39年ぶりに改定した。これには、金日
35同書、183頁
36北朝鮮の政治体制と先軍政治
18香川正俊
37 46
38「ツーショット」街にあふれる、『朝日新聞』、2012年4月15日、朝刊、9頁
成と金正日、そして金正恩を正当化する内容になったとしている39。これに合わせ、銅像や壁画、
バッジなどを金日成と金正日が並ぶものを作成した。また先軍政治強化にも力を入れている。
2010年10月には北朝鮮、党創立65周年を記念したパレートを行った。パレードを指揮した李英
浩は次のように演説している40。
米国帝国主義者が自主権と尊厳を少しでも侵害するなら、自衛的核抑止力を含むすべての
物理的手段を総動員する。
金正恩はこのように攻撃的な内容を軍人に演説させ、先軍政治を強化させている。また、朝日新聞
は今回のパレードには、平壌在駐の外交団や外国のメディアも招かれており、金正恩が先軍政治
を維持していく考えを内外に強くアピールしたと分析している。この様な手口は、金日成や金正日
が自分の権力を維持するのに使った方法と全く同じである。
このように、金正恩も金正日と同様に軍を全面に押し出した手法で国家運営を行っていくように
見える。しかし、2012年以降、「先軍思想」とは別に「並進路線」という概念を新たに持ち出してきて
いる。「並進路線」とは、北朝鮮によると経済発展と核開発を同時に行うというものである。
この「並進路線」とは何なのか。これからは「経済」と「軍」の2つを見ることにより、「並進路線」とは
何なのかを考えたい。
4-2.党と軍
4-3.悪化する経済
主体思想は経済にも入り込み、主体経済となり、北朝鮮の経済状況は悪化していることは既に説
明した。1990年に入ると経済状況はさらに悪化することになる。それは1990年台の初頭に社会
主義圏が崩壊したためである。北朝鮮経済を支える一つの要因であったソ連等を筆頭とする社会
主義国との貿易が出来なくなってしまった。そのため重工業では、設備老朽化→品質低下→輸出
不信→外貨不足→新規投資不振という悪循環を生み出した。この不振を受け、軽工業部門も原料
や電力不足により生産が落ち込んだ41。
39同記事
40後継正恩氏、内外に誇示「進展早い」日米韓懸念 北朝鮮、党創建65週年、『朝日新聞』、
2010年10月11日、朝刊
41 https://www.jetro.go.jp/ext_images/jfile/report/07001964/07001964.pdf 3-5
農業部門でも経済状況は良くなかった。1990年台中盤に、苦難の行軍と呼ばれる食糧危機が
発生した。大規模な水害や、干ばつが発生し、食料生産が激減してしまったのである。そのため、
食料の配給がストップし多くの餓死者を出した42。
こうした問題を解決するために、2002年「経済管理改善措置」を行った43。①食糧・物資の国定
価格の引き上げ、②成果給の導入、③企業の独立採算制強化、④外貨兌換券の廃止と為替レー
トの引き上げである。また、市民同士が物を売買する、いわゆる闇市が存在しているが、その存在
を認め、市場での取引が許可されるようになった。この経済政策と、市場の導入により、北朝鮮の
経済は回復の兆しを見せた。しかしこれにも難点があった。それは、商取引が活性化し、貨幣が出
回ったのにも関わらず、工業生産力は回復していなかったため、商品や、物資の供給が不足しイ
ンフレが発生してしまったことである。
そこで政府はデノミネーション(貨幣交換)の実施によって、インフレを抑制しようとした。デノミネー
ションとは、通貨を切り下げる経済政策である。北朝鮮が行ったデノミネーション政策は以下の通り
である。①交換期間は1周間②比率は100:1。貯金は10:1に優遇される③期間内に交換できな
かった通貨は無効④市場を閉鎖する。しかしこの政策は失敗に終わってしまう。そもそも、物資の
供給が不足しているためインフレを止めることは出来ない上に、市場が停止してしまったため、物
流機能も停止し、混乱状態に陥ってしまったのだ。
4-4.並進路線
これまで見てきた通り、金正恩は大きく分けて2つの問題を抱えている。1つは、権力の掌握であ
る。金正日から金正恩への権力の移行と、金日成から金正日への権力の移行を比較して考えても、
金正恩は準備期間が短く十分な経験なくして権力の座についてしまった。また、金正日時代に軍
の権力が肥大してしまっている。(4-3)そのため、軍の掌握が難航している。
もう1つの問題は経済問題である。金正日からの負の遺産とも言えるが、苦難の行軍以降、北朝
鮮の経済状況は芳しくない。インフレ防止に放ったデノミも失敗に終わってしまった。この経済政策
の失敗には軍にもしわ寄せが来ている。軍には一般市民と比べ、比較的多くの食料が配給されて
いたが、現在その配給は少ない、または配給が受けられない事がある。そのため、軍による略奪が
増えている。その略奪は国内外問わず行われている。朝鮮軍の一部隊が、国内の民家を襲い食
料を奪うなどの事件が起きているのだ44。こういった略奪は国境を超えても起こっている。2016年7
月28日には、北朝鮮兵5人が中国吉林省長白朝鮮族自治県に侵入し、略奪行為を行ったことが
報道されている45。
42 https://www.jetro.go.jp/ext_images/jfile/report/07001964/07001964.pdf
43
44
45北朝鮮兵士? 5人が中国側に侵入し略奪行為 銃撃戦に
http://www.asahi.com/articles/ASJ7Y2RRBJ7YUHBI00F.html 朝日新聞
ここで並進路線が用いられた理由は次の2つが考えられる。1つは、文字通り経済成長と核開発
を同時に行うということである。金正恩は、権力の掌握と金正日の負の遺産である経済問題を同時
進行で解決する必要がある。確かに、北朝鮮の朝鮮労働党中央委員会2013年3月総会に関す
る報道では、「並進路線の真の優位性は、国防費を追加的に増やさなくても戦争抑止力と防衛力
の決定的に高めることで、経済建設と人民生活の向上に集中できるとことにある」と説明している46。
これが意味するところは、核兵器や大量破壊兵器に特化し、質を向上させることで、その他の軍事
費は追加的に必要とせず、経済政策に回すことが出来るというものである。しかし、これを実現する
のは難しいだろう。現在の核兵器の質を高めるには、かなりの金が必要であるからだ。また実際に
行われた経済政策も結果が現れてはいない。2013年には5つの特区と、各道の19地域を経済
開発区としたが外資の誘致が行われず、経済開発は行われていない状況だ。工業に関しても慢性
的な電力不足によって生産性の低下や、インフラの老朽化などといった、根本的な問題を抱えて
いるからである。
そこで考えられるのが、「並進路線」という名の「先軍政治」である。既に述べたように、北朝鮮が
抱えている経済問題は軍の食料にも影響を及ぼしている。軍に配給する食料が足りず、略奪と
いった問題が起こっている。このままでは、権力が肥大化した軍を掌握するのは更に難しくなる。そ
のため、軍の食料を確保するための経済政策であると考えられる。つまり、経済と軍事の二足のわ
らじ戦略ではなく、軍のため一本の戦略である。
実際に、経済政策より軍事的な政策のほうが進んでいると言える。9月までにおいて、北朝鮮は
2016年通算で5回の核実験を行っている。また、憲法を改正し「核保有国」である事を明記した。
北朝鮮の宣伝ウェブサイト「わが国」に、2012年4月13日に最高人民会議で改定した憲法の全
文を公開した。
憲法の序文には「金正日(キム・ジョンイル)同志は…先軍政治で金日成(キム・イルソン)同志
の高貴な遺産である社会主義戦取物を光栄に守護し、わが祖国を不敗の政治思想強国、核保有
国、無敵の軍事強国に転変させ、強盛国家建設の輝かしい大通路を開かれた」という部分を追加
した47。そもそも金正日が権力を掌握したのも、軍の力を足がかりにしたためである。権力の掌握に
は軍の掌握が必須なのである。
このことから、「並進路線」とは、軍事優先であると考えられる。
結論(作成中)
46
47北朝鮮、新憲法に「核保有国」明記http://japanese.joins.com/article/j_article.php?
aid=152940
今まで主体思想の変化を見てきたように、自国存続――国際社会からの生き残りのため、都合よ
く変えられてきた。金日成から金正恩までの流れは次のようにまとめられる。初期段階の主体思想
は、他の社会主義校と同様、マルクス・レーニン主義を北朝鮮に合うように変えられたものだった。
それが金日成時代では、ソ連批判やソ連派を粛清し、独裁体制を強める口実に使われた。また、
中ソ対立の中で北朝鮮が生き残る手段でもあった。金正日時代になると、金日成からの権力の受
け継ぎ正当化するものとして使われた。また、自分の権力の強化、保守へとその使用目的が変更し
ていった。冷戦が終わり、社会主義国が次々と崩壊すると、北朝鮮も国の存続が怪しくなってきた。
そこで、金日成が中ソ対立から北朝鮮の存続を守ったように、先軍思想という新しい思想に変化し
ていった。金正恩が北朝鮮のトップになってからは、主体思想と先軍思想の2つをより使うように
なった。主体思想は、金日成と金正日と同様に自分の権力を強化するために使用された。そして、
先軍思想は、北朝鮮という国家の存続のために使われるのだ。(未修正 仮)
おわりに(作成中)
参考文献:
小此木政夫『岐路に立つ北朝鮮』、東京:日本国際問題研究所、1988年
李佑泓『どん底の共和国━━北朝鮮不作の構造』、東京:亜紀書房、1994年
李佑泓『暗愚の共和国――北朝鮮工業の奇怪――』、東京:亜紀書房、1994年
徐大粛『金日成と金正日━━━革命神話と主体思想』、古田博司訳、東京:岩波書店、1996
年
小此木政夫『金正日時代の北朝鮮』、東京:日本国際問題研究所、1996年
黄長燁『黄長燁回顧録 金正日への宣戦布告』荻原遼訳、東京:文藝春秋、1999年
宮崎俊輔『北朝鮮脱出 地獄からの生還』、東京:新潮社、2002年
伊豆見元、張達重『金正日体制の北朝鮮━━政治・外交・経済・思想』、東京:慶応義塾大学出版
会、2004年
西川吉光『激動するアジア国際政治』、京都:晃洋書房、2004年
金元祚『凍土の共和国』、東京:亜紀書房、2008年
礒崎敦仁、澤田克己『LIVE講義 北朝鮮入門』、東京:東洋経済新報社、2010年
徐大粛『金日成』、林茂訳、東京:講談社、2013年
倉山満『嘘だらけの日刊近現代史』、東京:扶桑社、2013年
西川吉光『マスター政治学━━一般教養&就職・公務員試験合格ブック』、名古屋:三恵社、2014
年
苫野一徳「フロム『自由からの逃走』」(http://ittokutomano.blogspot.jp/2012/01/blogpost_
2023.html 観覧日2014年7月12日)
後継正恩氏、内外に誇示「進展早い」日米韓懸念 北朝鮮、党創建65週年、『朝日新聞』、2010
年10月11日、朝刊
先軍政治 国内統制の万能薬(北朝鮮の素顔 第2 部・政治体制5)、『朝日新聞』、2003年5月
3日、朝刊
「ツーショット」街にあふれる、『朝日新聞』、2012年4月15日、朝刊
先軍政治 国内統制の万能薬(北朝鮮の素顔 第2部・政治体制5)、『朝日新聞』、2003年5月
3日、朝刊
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