皆さん現在のこの混沌とした状態を、欺瞞の世と議論として説明していこうと思います。
私も沙汰は意外と慣れていたと言うか悪い意味で鈍感になっていたかもと改めて考えされるこの大統領選以降の混沌でした。
理屈としては理解し経験としても納得している。しかしそのダメージの大きさは確かに大きかった気がします。闘争は必ずダメージを負います。私が巨悪や弁護士と戦った時もやはりダメージは大きかった。でもそれも覚悟した上で戦わないといけないというこの日本や世界の状況が気が付いた国民には受け入れがたいのかもしれません。それは政治家を見ても然り、しかし国民はネットと言う便利な図書館で様々な情報を知り自ら闘いだしたと思いました。
私は皆さんの為に何があれば便利だろう!?と考えた時から自然とディベートをしてました。勿論リアルではその場が無いのでネットで幾度と基本口頭でしました。
それからそれを明文化、体系化する為に調べたら議論も学問に成っていました。
簡単に申しましても、
善と悪と別けて、
・建設的な議論が善論法
・それ以外は基本悪論法
と成ります。
その悪論法 の中に 私の呟きにもある 詭弁きべん(故意のウソ) 強弁きょうべん(おしつけ) 誤謬ごびゅう(勘違い) があります。
上記三つを知るだけでも、「それ詭弁ですよ!」などというだけで実は嘘つき怒らせたり困らせる事は出来ます。それをせずとも自身は騙されずに済みます。
ワードから検索して、理解を深めたら攻守共にもっと強くなります。
そして議論の果てに気が付いたのは、故意のウソもおしつけ もダメ そして勘違いを減らす為に調べる。その繰り返しをして、「議論は相手を倒すものでも自分を守るものでも無く、自分を知り相手を知るものだ。」と分かりました。
そして人は強くない弱い生き物だと、一喜一憂する感情が邪魔、
それに感情そのものが自分自身だと勘違いしている自分、個人の自由と言う権利主張を連呼する勘違いさせる世の中 一方世にいくら幻があれど論理は一切変わらない。
つまり自分も含め人々はただ無知であり、今まである知識や文化や言語の中に生きているだけで実は何も生み出してなんか居ないとも、そこまで理解した時自身の小ささを受け入れる事が出来ました。そして他人も小さい。なので悔い改めるなら私は他人を許します。
それに、勝てると分かる相手、自分より弱い相手とは戦いわないとも決めてます。
ただただ絡まれるから相手はしますが、皆さんには良いデモンストレーションになるからそれもまた良し、それは相手が決めたものですしね。
とにかく人は弱い私も弱いそれを認めてこそ強さを得れると、
所詮どなたも宇宙のチリなのですから
結論何が言いたいかと言いますと、皆さんは、皆さんなりの議論が出来ます。あなたが感じた苦しみをそれを知らない知ろうともしない人々に与える事は出来ます。それが討論の際に起こる情動です。それを相手に与え、そして相手がその苦しみを感じ過ちを認めたら許したらよいのです。その痛みを相手も知ったなら、つまりこれも優しさですよね。
釈迦も傍観から罵詈雑言、罵声を浴びせられても相手が疲れるまで黙り、最後に「それは私の意見ではない つまり誰の意見かな!?」と言って立ち去ったと言います。これを言われた時、自身を知った時の苦しみを相手に教えてあげる事が相手のためにも成るのですよね。
と私が議論で何をしているか!?の説明でも有ります。知ろうともしない愚者には苦しみを与えがけに落とし這い上がる事を求めます。
知ろうとするなら、そのキーワードを与えその人がその人なりに成長する事を望みます。
つまり、世の人々は、成長せず見た目は大人に成れど、子供が喧嘩している 赤ん坊が駄々こねているのと同じなのです。
そう見たらよいのですよね。
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