【禁断】エヴァンゲリオンとエディプスコンプレックス【神と人、親と子】
エヴァンゲリオンに描かれる、碇シンジと碇ゲンドウ親子の葛藤

まさにフロイト心理学のエディプス・コンプレックス、親子関係の心理学なので、今回も元宗教家の息子として生まれた私が、解説していこうと思います。
エディプスコンプレックス
エレクトラ‐コンプレックス
コトバンクでは
https://tinyurl.com/2gkzl5sa
精神分析学のフロイトが用いた語。男の子が無意識のうちに同性である父を憎み、母を性的に思慕する傾向。また、女の子が母を憎み、父を思慕する傾向をあわせてさすこともあるが、後者は特に「エレクトラ‐コンプレックス」といって区別する。エディプスが、父とは知らずに父を殺し母を妻とした、というギリシア神話「エディプス王」にちなんでフロイトが名づけたもの。→エレクトラコンプレックス。
ウィキペディアでは
https://tinyurl.com/2kaah37j
でた!エヴァンゲリオンっぽい(・o・)

※ギュスターヴ・モローによるスフィンクスとオイディプス
エディプスコンプレックスとは、母親を手に入れようと思い、また父親に対して強い対抗心を抱くという、幼児期においておこる現実の状況に対するアンビバレントな心理の抑圧のことをいう。
フロイトは、この心理状況の中にみられる母親に対する近親相姦的欲望をギリシア悲劇の一つ『オイディプース』(エディプス王)になぞらえ、エディプスコンプレックスと呼んだ(『オイディプス』は知らなかったとはいえ、父王を殺し自分の母親と結婚(親子婚)したという物語である)。
親と子と神と人、聖と生(せい)の葛藤
宗教家や信仰者は、崇高な祈りの儀式の後に、生活のためのありきたりな日常に戻る。この落差、落差の中に、落胆と空虚そしてそれが過ぎれば絶望へと変化していく、心には常に悲歌が流れ、乾いた風が傷口をジワジワとくすぐる感じだろうか、【概念の籠の鳥】【終わりなき日常を送らされる】そんな閉塞感の中に知らずして閉じ込められる。
これは心理側面的観測だが、あまねく宗教家の無意識を支配するのだが、昨今それが吹き出しているのが、皆さんの社会情勢でもご覧になられる。統一教会、創価学会問題などにも見て取れるわけです。
そもそも宗教はこの教えは「うちらの奇跡は良いものです!」と良いこと言いすぎての落胆を起こさせてしまっている。
一般的に言えば「ハードルを上げすぎ」ですね(笑)
そして、メタファー 比喩 を「比喩です!」とちゃんと説明できてないので、物語というファンタジーを見せてしまっているとも言える。
「信心が足りない!」と言うならそれは一極面の感情に向けさす、とどまらせるなら、それはアンカリングで宗教家の悪い手口だ。
宗教がすべき本質的救済
少なからず人の心には、喜怒哀楽が存在する。
宗教は、喜怒哀楽を有る種、超越することに有る。
人に喜びを与え
人の怒りを治め
人々の哀れみを弔い
人に楽しさを与える。
そしてこれを扱い、そしてそれを超えさせることに有るのだろう。
つまり、悟りとは、人々の【欲望と葛藤】とはまったくもって別の空間にある。
つまり、現在のどの宗教組織も社会も欲望と葛藤を繰り返している以上、そこに宗教や社会の悟りは起こるわけはない。つまりそこでは悟りたるものは得られないということです。
つまり宗教団体に「悟りたい!」と属している時点で、「そこでは悟れない」という自己矛盾が発生し、必然と、【欲望と葛藤】が現れる。
そして、エヴァンゲリオンもよく見ていると、「自作自演の文明の発展の終局を迎えての破滅」人々は合理の末に破滅を迎えてしまう
バビロンも神を憎み文明を発展させる。そして自滅していく、つまり教団はおろか社会も自滅していく運命なのでしょう。
形あるものはすべて壊れるつまり【諸行無常】
東日本大震災の際に故西部邁先生は
「文明が盤石ではない自然には勝てない事に人は安堵した」
と残した。一見不謹慎に聞こえる発言だが、被災者だった私は納得した。
つまりそれも【諸行無常を指し示した話】だったと
構造主義的解説
まず、構造主義はwikiでまともに説明を読んでも難しいでしょうから、私が説明しますと、【家の設計図、プラモデルの説明書】という事です。
つまり設計図がしっかりしていないと、ちゃんとした家は建たない。説明書がしっかりしてないと、プラモデルも作りづらい。
つまり今の宗教団体は愚か、教義を愚者によって改ざんしてしまった設計図では、ちゃんとした、人の信仰心によるその宗教団体の家は建たないということです。
これが常々起きているわけです。
なので早かれ遅かれ、統一教会、創価学会問題のような問題は産出し、破滅していくというわけです。
我が兄のオイディプス・コンプレックス
ここからは私が兄に見たオイディプス・コンプレックスを書いていこうと思います。
父は代々大きな法人の会長職、容姿端麗、物静か 勿論女性会長や信者さんなどの異性ウケがよく、良い意味で、静かなる独裁者のような男だった。
その功績や立場や重責に兄は憧れと恐れを抱いていた。
私はその歪な親子関係を長らく歯がゆく思っていた。
そしてその兄のフラストレーションは、弟を初め家族親族信者にときより向けられていた。
そしてやがてその兄のオイディプス・コンプレックスに巻き込まれていくのでした。エヴァンゲリオンの負の部分を凝縮したような男だった。
それと本山との戦いも実は密接な関係があるのです。
私は末っ子の三男として家族を見上げ冷静に眺めている子だった。
そして彼らが、苦境に立たされた時に、何故、相手が宗教団体であっても、私が立ち向かったか?
それは上記で書かれているように、本山が教義をないがしろにしていたのは明確で、そして、その昔の交通事故の際に、走馬燈を見せられ、死を覚悟させられたからです。
敵のおぞましいビジョンを見て、口上を述べた際、武者震いが起きた。エヴァンゲリオンで言えば、使徒化するかのように、それを見ていた親族すら、「大丈夫!?」という感じだった。
宗教家の私が出した宗教への結論は
【宗教は世界であり信仰とは、命を掛けることである。】
そして体現をせざる負えなくなる。
しかし、その戦いも私には、敵は非常に弱かった。所詮【欲望と葛藤にまみれた異端】でしか無いからです。
それより強敵だったのは、家族親族、彼らの心の葛藤と迷いでした。
兄の葬儀の際に
「宗教と組織に誑かされた末路がこの姿」
と私が言葉を残した。
しかし、父が他界し、一月も経たずに、兄が他界した。
十中八九「お父さんが連れて行ったんだね」
と言われた。
私も異論はない。
信仰に命をかけたなら宗教家らしく、それで良い人生だったと今では思える。
私は、三男で性格の真逆の寡黙な父とよく話をし、参考にしていた。
今回思い出した言葉は
【真面目な人は怒らせるな!怒ったら怖いから!】
【親分は日頃パシっても良い!しかし困った時は必ず助けてやれ!】
【人助をたすけるとは、自らの命を神に捧げることだ】
でした。
余命半年で会長職を努め、その弱った彼を蹂躙する異端本山の担当者と反乱分子、
さあ皆さんならどういたしますか?
私でも家族の【迷いと葛藤)と言う強敵と立ち向かう中で、その状況を与えた神に神意をとう祈りを捧げた。
っそして、一週間も経たずに、敵の教唆主犯格が転落死をした。
父を片っ端から論破して、異端教団洗脳を解き
聖地倒壊、教団トップの転落事故と病気
神意は明らかであった。
しかし教団は所詮人のなす事、審判会でも誤った決断を下す(笑)
私達が出てからも、全国紙に載る横領事件を起こしていた(笑)
本音言います【マジで分かってない愚か者が運営してます!】
神と人親と子の関係が運営者と信者にも有る。
しかし、現在の運営者は神は崇めていない。悪魔です。
なのでこの信者はその悪しき親を打つことが使命となるのです。
つまり使徒化するのです。
そして、私は親を論破しましたが、以前より気づいてましたが、
彼の通ってきた生き方 と、【人は心だぞ】と耳にタコが出来るほど言われた。その言葉を、今現在、心理を語るものとして、
【流石だな親父】と思いますし。
父が言う【真面目な人を助けろ】の台詞は、親父自身だったと(笑)
何という自作自演なのだろうか
流石親父だ(笑)
兄はこんな冗談も言えないような、父への尊敬と葛藤に生きていた感じでしょう。
しかし、最期、一信仰者として、数奇なことに、父に連れられ、召されたのだから、信仰者としては、本望だと思う。
そんな生真面目過ぎてオーバーロードしていた不器用な兄に上記の文を捧ぐ
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